掲示板の歴史 その十四
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NO.359  グノーシス派
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/01/12(Wed) 20:41:16
□IP/ 4.27.3.43


義仙様、書き込みありがとうございます。
お蔭様でキリスト教神秘思想について興味が湧きましたので、少しばかり調べました。

グノーシス(gnOsis)=ギリシア語。知識あるいは認識。

『広辞苑』(岩波書店、第四版)によると「ギリシア末期の宗教における神の認識。超感覚的な神との融合の体験を可能にする神秘的直感。霊知」とあり、『大辞林』によると「一、二世紀頃地中海沿岸諸地域で広まった宗教思想、およびこれに類する考え方。反宇宙的二元論の立場にたち、人間の本質と至高神とが本来は同一であることを認識することにより、救済、すなわち神との合一が得られると説く。マンダ教やマニ教はその代表的宗教形態」とあります。

手元にある岩波書店『ナグ・ハマディ文書II 福音書』の「序にかえて」(荒井献氏)によると、ここでいう「反宇宙的二元論」というのは「負としての宇宙を形成する原理(宇宙形成者、ギリシア語でデーミウールゴス)に相対立する正としての宇宙を救済する原理[至高神や救済者]が前提とされていること」で、この「至高神」の本質(霊魂)は宇宙と世界を貫いて人間の中に宿されているそうです。これは大乗仏教における「如来蔵」や「法身」の思想と符合します。
ところが、デーミウールゴスの支配下にある人間はこの自らの本質(本来的「自己」)について無知の状態に置かれており、自らの本質を非本来的自己としての身体性と取り違えている。人間は、救済者の告知により、人間の本質と至高神とが本来は同一であることを認識(グノーシス)し、神との合一を達成して救済されなければならない。(「序にかえて」xiii)
これは本覚思想における「不覚」と「覚」の関係を想起させます。

『キリスト教の本(上)』に「第五の福音書の発見」(一二〇〜)という小見出しで始まる記事に『ナグ・ハマディ文書』について書かれているのですが、その中でも「『トマス書』が語るイエス像/神の知恵のレベルに到達したグノーシス主義の体現者」という記事は『トマス書』について書かれています。
同福音書は最初に書かれた年代がマタイ、マルコ、ルカの共観福音書とほぼ同時期、つまりキリスト教史的にかなり初期であったことが重要だと述べてます。
この福音書は私が持っている『ナグ・ハマディ文書II』にも収録されているので実際に少しめくってざっと確認してみたところ、「秘義に値するものにだけ秘義を授ける」という内容のラインがあり、おそらくはこれに基いて『キリスト教の本(上)』(一二七)では「イエスはグノーシスに到達した先達」であり、彼に倣って「本来的自己」に目覚める者は非本来的な諸対立を超えて神的な一性を生きることとなり、イエスと同等になることで「永遠の命」を与えられているという主張を展開させると述べています。

また同書にはグノーシス主義とキリスト教グノーシス派の歴史的背景と思想に関するより具体的な記事があり、非常に便利なので以下に引用させていただきます。
「異端」とされたグノーシス派

そもそも、「グノーシス主義」とは何か。
これは、地域的にはローマ帝国の周辺属国(エジプト、パレスチナ、シリア、小アジア)において、時期的には1世紀の後半から2世紀にかけて、それも多くがユダヤ教との接触地域において発生し、3、4世紀まで興隆を続けた宗教運動である。その基本的性格は次の3点にまとめられる。
第一に、自己の本質と至高者のそれとが全く同一であるとの悟り(=認識、ギリシア語で「グノーシス」)に救済の根本原理を見ること。
第二に、そのような「本質」は全く霊的なものであり、悪そのものであるこの世界や物質的存在とは一切関わりを持たないとすること。換言すれば、宇宙論的な霊肉肉二元論を標榜すること。その結果、この世の創造主としての神は、悪魔扱いされることになる。
そして第三に、そうした原則を展開する神話観を持ち、その中で、その霊の世界から到来し、無知の中にたたずむ人間たちに呼びかける救済者が描かれること、である。
こうした思考が登場した背景には、ローマ帝国の圧倒的な軍事的優位の下、激しい搾取と抑圧に晒された属州民の厭世意識があろう
つまりグノーシス主義は、そうした彼らのアイデンティティ確立の必死の試みの一つだったともいえる。紀元70年のユダヤ滅亡に際して、「主なる神」が何ら救いの手を差し伸べなかったことへのユダヤ人の絶望も、副次的要素として考えられよう。
こうした思考がキリスト教の中に入ってきたものを「グノーシス派」と呼んでいる。
グノーシス派においては、第三の項に言及した「救済者」が「キリスト」と同定される。だが、その際のキリストとは、地上を生きたナザレのイエスとは全く無関係の霊的存在であるか、あるいはせいぜいイエスという仮の形で現れた(これを「仮現論(ドケティズム」と呼ぶ)にすぎないとされる。従って、イエスの受難には何の積極的意味も付されないばかりか、イエスが「キリスト」として十字架についたことも原理的に否定されるに至る。(一四〇、佐藤研/立教大学助教授)
この記述を読むとわかりますが、グノーシス派における「キリスト」「仮現論」はまさしく仏教でいう「応身」のコンセプトにそっくりですね。
また同書には「グノーシス派との論争」(一六二〜六頁)という記事があり、これによると「グノーシスなどの異端思想は、正統キリスト教によって壊滅させられたが、その流れは中世以後の神秘主義などに入り込み、形を変えながら歴史の底を地下水のように流」れてきたとあります。その辺についても機会があれば見てみたいと思います。

キリスト教グノーシス派の宗教的実態については、上掲『ナグ・ハマディ文書II』の「序にかえて」に次のような記述があります。
しかし、グノーシス主義そのものが元来キリスト教とは無関係に成立した独自の宗教思想であったこと、そしてそれが事後的にキリスト教のテキストに自らを適合し、それを解釈して「キリスト教グノーシス派」の神話論を形成したことは、すでに確認したとおりである。このことは、とりわけナグ・ハマディ文書によって実証される。なぜなら、この文書にはキリスト教グノーシス文書のほかにキリスト教とは関係のないグノーシス文書が含まれているばかりではなく、一つの文書が次第に自らをキリスト教的要素に適用させていく過程が同一文書(例えば『ヨハネのアポクリュフォン』)の複数の異本(写本II/1、写本III/1、ベルリン写本)によって跡付けられるからである。(「同」xvi)
この記事を読む限りでは、キリスト教グノーシス派の登場は「キリスト教の密教化」ではなく、むしろ「グノーシス主義がキリスト教化した」(そしておそらくはキリスト教を密教化しようとした)と考えた方がよいようです。