掲示板の歴史 その十二
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NO.324  『大安般守意経』に見る数息観
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/12/19(Sun) 21:40:26
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同氏はこの『大安般守意経』をもって「仏教における呼吸法の完成」であるとしている。
『大安般守意経』
後漢の安世高訳。中国に訳された経典群の中でももっとも古い部類に属する。
インドの仏典の中で調息法だけを専門的に説いている経典は同経典のみであるという。
安世高は安息国(パルティア)出身であり、中央アジアにあった当時の安息国にこのような経典が存在したのではないかと鎌田氏は推測する。ちなみに、現存している『大安般守意経』は西暦三世紀に訳されたために古訳が使われていて、氏は十分に意味を理解できないといっている。
同経典の名前ともなっている「守意」という言葉はサンスクリット語「sati」の訳語で、念とも訳される。
すなわち、意(心)を乱さずコントロールするという意味である。
氏は、同経典における次のフレーズに言及している。
  • 「仏が坐して安般守意を行ずること九十日」(冒頭)
    鎌田: 九十日やれば一定の程度まで修得できる。釈尊が九十日間守意を修したということには重要な意味があると思う。
  • 「安般守意に十黠(慧)有り。謂く、数息と相随(anugama)と止(sthAna)と観(upalakSaNA)と還(vivartanA)と浄(pariSuddhi)と、四諦と、是れを十黠を成ずと為す」
    鎌田: 四諦を除いた六項目が安般守意を行なうのに特有なもので、中国の天台大師はこの六つを「六妙門」と名付けた。この六妙門こそ同経典が明らかにしようとしたものである。
  • 「何等をか安と為し、何等をか般と為す。安を名づけて入息と為し、般を名づけて出息と為し、息を念じて離れざるを是れを名づけて安般と為す。守意とは意を止するを得んと欲す」
    鎌田: 安般とは入息と出息の呼吸を意識することであり、守意とは心を一つにとどめて散乱させないことである。
岩波書店『訳経史研究』所収「安世高の研究」(宇井伯壽博士、一九七一年)で、宇井氏は同経典の本文と陳慧による註釈とを書き下し文にしている。以下は各語彙とそれらに対する経典の説明、及び陳慧の註釈である。
  • 守意
    守意とは無所著(むしょじゃく、つまり無執着)を守意と為し、所著有るをば守意と為さず。(陳慧)
  • 六法(六妙門)
    数息、相随、止、観、還、浄を念じて意を修せんと欲す。道に近きが故なり、是の六事を離るれば、便ち世間に随うなり。数息は意を遮すとなし、相隋は意を斂(おさ)むとなし、止は意を定むとなし、観は意を離るとなし、還は意を一つにするとなし、浄は守意となす。人が意を制すること能わざるを用っての故に此の六事を行ずるのみ。
  • 安般守意
    人、安般守意を行いて、数息、相随、止を得て便ち歓喜す。此の四種は譬えば火を鑽(き)りて煙を見るも、能く物を熟せざるが如し。何等かの喜びの用を得るも、未だ出要を得ざるが故なり。
  1. 数息
    数息に三事有り。@ 一には当に坐行(つまり坐禅)すべし。A 二には色を見て当に非常(つまり無常)不浄を念ずべし。B 三には当に瞋恚、疑、嫉を暁(さと)り、過去を念ずべし。
    数息の得られないのに三因縁あり。@ 一には罪(呼吸が乱れるような障害、たとえば雑念や妄想が次々に浮ぶこと)が到る。A 二には行が工ならず、B 三には精進せざるなり。
    入息は短く、出息は長く、念いに従う所無きを道の意と為し、念う所の有るを罪と為す。罪は外に在って内に在らざるなり

    坐と行
    道の人、道を得んと欲せば、要らず当に坐行の二事を知るべし。@ 一には坐(座っての修行、静禅)と為し、A 二には行(脚を用いての動作のある修行、動禅)と為す。問う。坐と行とは同じと為すや、不同なりや。報(こた)う、有る時は同じにして、有る時は不同なり。数息、相随、止、観、還、浄の此の六事は有る時には坐と為し、有る時には行と為す。何を以ての故に。数息(呼吸法)にて意は定まる。是を坐と為し意の法に随う(心の安定に随って行動すること)を是を行と為す。巳に意を起して離れざるを行と為し、亦坐とも為すなり。

    三坐
    坐に三坐ありて道に随う。@ 一に数息坐(数息を坐位によって実行すること)、A 二に誦経坐(経文を一心に読誦すること)、B 三に聞経喜坐(誦経を聞いて喜ぶこと、または他の者たちと共に読経する喜び)を為す。

    数息の目的
    問う、仏は何を以て人に数息守意を教うるや、報う、四因縁有るなり。@ 一には痛を欲せざるを用っての故なり(長く坐っていると脚腰が痛くなるが、数をかぞえていると多少でも痛みを減らすことができるため)、A 二には乱意を避くるを用っての故なり(心の散乱を防ぐため)、B 三には因縁を閉じて生死を会するを欲せざるを用っての故なり(迷いの原因である外界からの刺激、雑音を遮断するため)、C 四には泥? 道(ないおんどう、つまり涅槃)を得んと欲するを用っての故なり。

  2. 相随 (anugama)
    相随とは善法を行うをいう。是に従りて脱を得、当に与に相い随うべし。亦謂く、五陰(色受相行識)と六入(眼耳鼻舌身意)に随わず、息と意と相い随うなり。

  3. 止 (sthAna)
    問う。第三の止は何を以ての故なりや。止は鼻頭に在りや。報う。数息、相随、止、観、還、浄を用ゆるに皆鼻より出入す。意習う故に処また識り易しとなす。この故に鼻頭に著けるなり。悪意来れば断つを禅となす。ある時は鼻頭に在って止す、ある時は心中に在って止す。著する所あるを止となせば、邪来りて人意を乱さば、直ちに一事を観じ、諸悪来るも心は当に動ずべからずも、心は之を畏れずとなさんや。

    四種の止
    止に四あり、@ 一には数止、A 二には相随止、B 三には鼻頭止、四には息心止となす。止とは五楽六入を制止すべきものなり。入息至り尽せば鼻頭止なり。謂く悪復た入らず、鼻頭止に到る。出息至り尽せば鼻頭に著く。謂く意復た身を離れず、行い悪に向うが故に鼻頭に著す。

  4. 観 (upalakSaNA)
    観。息の敗るるを観ずる時、観と身体と異る。息は因縁(原因と条件)ありて生じ、因縁なくして滅す。心意、相を受くるとは、謂く意、所得あらんことを欲す。心に因縁を計(かんが)えるに、会うて当に滅ぶ。便ち所得を断って復た向わず。是を心意、相を受くるとなす。

  5. 還 (げん、vivartanA)
    還は尚有身亦は無身なり。何を以ての故に、有意は有身、無意は無身なり。意は人の種なり。是を名付けて還となす還とは意にまた悪を起さぬことをいう。悪を起せば是を不還となす。

  6. 浄 (pariSuddhi)
    何等かを浄と為す。謂く、諸の所貪欲を不浄と為す。何等をか五陰相となす。譬えば火を喩えて陰と為し、薪を相と為す、息より浄に至るを、是れ皆観と為す。