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NO.320 『雑阿含経』に見る数息観
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/12/19(Sun) 21:38:34
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鎌田氏によると、『雑阿含経』における数息観の記述で注目すべきなのは「内息」と「外息」と表現されるコンセプトである。氏はこれらをそれぞれ「体内呼吸」「体外呼吸」と解釈している。
巻二十六「安般品」には、まず五つの修行方法があると説かれる。
- 戒律 =浄戒を守り、威儀を正し、微細の罪を犯しても怖畏を生じ戒律を守る。
- 復た次に比丘は、小欲、小事、小務たること(仕事や務めを少しく減らすこと)。そして安那と般那の呼吸法を修習せよ。
- 比丘、飲食するに量の多少を知り、飲食に対して欲望を起さず精勤思惟すること。そして安那般那念もて修せよ。
- 睡眠を多く貪らないで精勤思惟すること。そして安那般那念もて修せよ。
- 比丘、静かな林中に住して、さわがしいところを離れ、そして安那と般那の呼吸法を学ぶべし。
同品は『安那般那念経』を引いて、仏が舎衛国(コーサラ国の首都シュラーバスティ)の祗樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん、祗園精舎)で安那般那の念の効用を説いている。
すなわち、これを多く修習すると身心が安らかになり、心が寂滅、純一になって明らかになるということである。
まず、その前段階として、修行者は次のようにすべきであると同経典は説いている。
- もし集落や城邑に行ったなら、早期に衣を著け鉢を持ち、村に入って乞食する。
- その時、よくその身を護り、欲望の入口となる六根をしっかり守り、よくその心にそのことを留めておく。
- 乞食し終って住処に帰り、衣鉢をおいて、足を洗い終わったならば林の中の樹の下や、或は空き地に入って端身正坐して観念する。
このようにすることによって、修行者は世間の貪愛を断じて欲を離れ清浄になり、瞋恚、睡眠、悼悔、疑などを断じて心を善法に決定することができること、煩悩がなくなることを説いている。
同品ではさらに安那般那念、すなわち数息観の詳細が説かれている。
鎌田氏は、ここで説かれる「内息」「外息」が非常に重要であるという。
以下は同品に見られる数息観の詳細である。
- 内息(内呼吸、体内の呼吸)を念じては念を繋(か)けて善く学す
- 外息(外呼吸、体外の呼吸)を念じては念を繋けて善く学す
- 息の長き息、一切の身の入息を覚知して、一切の身の入身に於いて善く学す
- 一切の身の行息を覚知して、一切の身の出息に於いて善く学す
- 一切の身の行息・入息を覚知して、一切の身の行息・入息に於いて善く学す
- 一切の身の行息・出息を覚知して、一切の身の行息・出息に於いて善く学す
- 喜を覚知する
- 楽を覚知する
- 身行を覚知する
- 心の行息・入息を覚知して、心の行息・入息を覚知するに於いて善く学す
- 心の行息・出息を覚知して、心の行息・出息を覚知するに於いて善く学す
- 心を覚知する
- 心悦を覚知する
- 心定(心の統一)を覚知する
- 心の解脱(凝り固まった心が解けること)入息を覚知して、心の解脱入息を覚知するに於いて善く学す
- 心の解脱出息を覚知して、心の解脱出息を覚知するに於いて善く学す
- 無常を観察する
- 断(煩悩を断ずること)を観察する
- 無欲を観察する
- 滅入息を観察して、滅入息を観察するに於いて善く学す
- 滅出息を観察して、滅出息を観察するに於いて善く学す
- 身止息し心止息して有覚、有観ならば寂滅、純一にして明分なる想の修習が完成する(鎌田氏は、これを「息は体全体で行なう体呼吸となり、かくて安那般那の最高の境地を体得することができる」と解釈している)