掲示板の歴史 その十二
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NO.315  初期仏教における修行法
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/12/15(Wed) 18:55:14
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宇井伯壽氏も
仏陀の教の凡ては皆之を実践の上に表はすことに於て其真の意義を発揮するものである。そして実践の道としては種々なるものがあるであらうが、其中で最重要にして基礎的のものとも称し得べきものは即ち八聖道である。(岩波書店『印度哲学研究 第三』一九六五年、五〜六頁)
といっているように、八正道(八聖道、八支聖道、Aariyo aTThaNgiko maggo, AryANgikamArga)は四諦に基づいた初期仏教の基本的な修行項目で、これを完成することで涅槃にいたると説かれていました(ただし、十二縁起(掲示板の歴史-九)と同様に、これが当初から修行道の段階的展開を意図して説かれたものだったのかを疑問視する説もあります)
以下はその八項目の、稲垣久雄氏(龍谷大学教授)による定義です。

  1. 正見
    四諦の一つ一つを認知することが中心であるが、また善悪の業とその報いがある、などと正しく見ることをいう。
  2. 正思惟
    欲と怒りと人を害する気持を起こさないことである。
  3. 正語
    妄語、両舌、悪口、綺語などをなさないことである。
  4. 正業
    十悪のうち体の行為に関する三つ、すなわち殺生、偸盗、邪淫をつつしむことをいう。
  5. 正命
    占いなどの間違った生活方法を捨てて、出家者の場合は衣服、飲食など定められた規則に基づく正しい生活をすることをいう。
  6. 正精進
    四つの面で努力することをいう。すなわち、(1)すでにしてしまった悪は断ずる、(2)まだしていない悪は起らないようにする、(3)まだしていない善は起るようにする、(4)すでにした善はますます増大するようにする。
  7. 正念
    特に四念処といわれる観念をさす。すなわち、(1)体は不浄である、(2)感覚でとらえられるものは苦しみである、(3)心は無常である、(4)法、すなわち存在するものは無我で実体がない、と観ずることをいう。
  8. 正定
    正しい禅定のことで、特に初禅から四禅までの高い三昧の境地をいう。
後には、これを含めた三十七の修行方法がまとめられて、三十七菩提分(三十七覚支)として語られるようになりました。

田中教照氏(武蔵野女子大教授)は岩波書店『インド仏教/3』所収の『戒・定・慧――修行道の体系』という論文の中で「八聖道は、釈尊の初めての説法において説かれた、と伝承する経典もあり、仏弟子たちのあいだではことほど左様に重視されてきているのである」と述べており、また『中部経典』中「大四十経」を参照して八正道が修行段階論として詳しく説かれていることを報告しています。
経典引用の詳細は論文を実際に読んでいただくとしまして、以下は同経の説示から同氏が導き出した六つの項目です。

  1. 冒頭の一文から、八支のなかでは正定が中心に位置し、他の七支は正定の補助具であること。
  2. 正定を除く七支のなかでは正見が常に先頭に位置し、この正見によって邪見・邪思惟・邪語・邪業・邪命と正見・正思惟・正語・正業・正命の区別がなされ、また、邪見・邪思惟・邪語・邪業・邪命の断除のためにつねに正精進と正念とともにこの正見が随転すること。
  3. 正見・正思惟・正語・正業・正命には有漏と無漏の二種類があり、有漏のものは煩悩(漏)があり、福徳を分有し(pun~n~abhAgiya)、煩悩の拠り処たる心身の展開上にあるもので、無漏のものは聖なる、煩悩なき、世間を出た、悟りへ至る道の一部であるものである。
  4. 正精進と正念は正見と共に正思惟・正語・正業・正命を実現し正定へと修行を達成させる修行の基礎となるものであること。
  5. 八支は正見からはじまり、正思惟、正語などと順次、段階的に進んで正定に至り、さらに正智・正解脱へと修行道が完成されていくことを示しており、これは明らかに八聖道が修行の方法として用いられることを示していること。
  6. 八支は正定で終わることなく、さらに正智・正解脱へと連絡して修行が完成されるわけで、八支は有学にすぎず、無学である十支道の完成がなければ、実質的な修行道とはなりえないこと。
この十支道は「大四十経」のみではなく『増支部経典』にも頻繁に説かれることから、同氏はこれを修行道とする考えはかなり広く行なわれていたのだろうと述べてます。
また「有明小経」の八正道の項目を三学(戒定慧)に分けて正語・正業・正命は戒学、正念・正定は定学、正見・正思惟を慧学にカテゴライズし、正精進を三学共通とする説がありますが、R. Buckness氏はこれを批判して「十支道=三学」すなわち「正見・正思惟・正語・正業・正命=戒学」「正精進・正念・正定=定学」「正智・正解脱=慧学」と捉えています。
一方、同じく「八正道=三学」について宇井氏は「修行道の大綱は八聖道とは独立に組立てられたものと考へられるるし、此が組立てれて後此方から八聖道を見て此に配当せむとしたのが実際上の経過」(『印度哲学研究 第三』四七頁)と述べています。

また、田中氏は同論文で『中部経典』「象跡喩小経」を阿含・二カーヤにおける三学の修行道を提示した代表的経典として取り上げ、次のようなおよそ十三段階に分類し得る段階的な「修行の実態」を導き出しています。

  1. 如来の説法と資産家たちの出家
  2. 戒の修得
     @身行清浄(不殺生など)
     A語行清浄(不妄語など)
     B生活清浄(種子を傷つけないなど)
  3. 感官(眼〜意)の制御
  4. 正念正知
  5. 独住遠離、五蓋(貪欲・瞋恚・棔眠・掉悔・疑)の捨断
  6. 初禅
  7. 第二禅
  8. 第三禅
  9. 第四禅
  10. 宿住随念智
  11. 死生智
  12. 漏尽智(四聖諦の観察)
  13. 解脱
これは三学に割り当てると戒=二、定=三〜九、慧=十〜十三となることから、三学の修行道を提示したものといわれていて、同氏はこれとまったく同文が「自他共に苦しめない者の修行法」として「カンダラカ経」に載せられていること、またこの「自他共に苦しめない修行法」が『集異門足論』や『人施設論』といった後の初期アビダルマ文献にも採用されていることから、後世にいたっても代表的な修行法として見做されていたと断言しています。

以下は、宇井伯壽氏による「沙門果経」に説かれる修行道の概観。

  1. 如来が出現して初中後善の完全な法を説くを聴いて如来を信じ
  2. 在家を捨てて出家し梵行を修して解脱に達せむと欲し
  3. かくして出家せる沙門比丘は波羅提木叉の定むる制御によつて自らを制御し善所行を具し僅少の過犯をも怖れ、諸学処を持して行じ、正しき身業と口業とを得て清浄に生活し、戒を具足し、諸根の門を護り、正念正智を得て、知足にして住すと説き、そして戒具足の詳説として前引用の小中大の三戒を其儘列挙し(此経四三−四五、四六−五五、五六−六二)、之を戒蘊と称して結び(六三)
  4. 又護根の説明をなし(六四)、正念正智を解釈し(六五)、知足を詳説し(六六)、更に、此の如き四種を完全して独処に閑居し結跏趺坐して身を整へ、念を緊張にし(六七)、貪欲瞋恚睡眠掉挙疑の五蓋を捨離す(六八)と説いて次に多くの譬喩説を挙げ(六八−七四)
  5. 進むで四禅を一々譬喩を伴ふて詳説し(七五−八二)、また四禅の効果として得らるる神通天耳他心宿命天眼漏尽の三明六通を一々譬喩によつて明にしつつ説いて居る(八三−九八)。
田中氏は各面から同経典を「これまでに示した修行道の総合」「仏教内外の修行道の総合」「あらゆるものをつぎ込んだ修行道の集大成」であると評しているのですが、そのためにあまりにも多くを含みすぎて修行の実態を見えにくくしてしまっていることから、実際の修行道というよりも修行道「論」であるとも言っています。