掲示板の歴史 その十
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■7 人形浄瑠璃と歌舞伎について
□投稿者/ 如月
2004/09/16(Thu) 10:02:34

某所では心理学、こちらでは愚問持法でいじめられている如月です(笑)。
求聞持法を速読に効果ありとしたのは、やはりまずかったですかね。でも(求聞持法によって)記憶力が増すことと速読は何か関連があるように思ったものですから。

人形浄瑠璃と歌舞伎の関係をアニメと実写の関係に比較するというのも、あまり単純化すると、逆に「似ている」ということから遡ってつじつま合わせするようになって変なことになっちゃうかもしれませんね。特に人形浄瑠璃とアニメの類似といった直接的な比較じゃなくて、関係と関係の比較という抽象的なことをいってますから。
ただ、実際、私はいつもそう思っているんです。

この問題に踏み込むためには、少し歌舞伎の歴史にも言及しなくてはいけないんですけど、初期の江戸歌舞伎はソング&ダンスのレビューのようなもので芝居的な要素はほとんどなかった。要するに生身の肉体を観客にさらすということに主眼があったわけですね。ですから芝居的なものは、人形浄瑠璃が分担し、そのことで人形浄瑠璃はとても人気があった。
そこで途中から、歌舞伎は人形浄瑠璃の台本を取り入れて芝居化し、公演の幅を広げたわけです。同じ台本を人形ではなく生身の人間が演じるわけですから、それこそ「リアル」な舞台になるわけですが、にもかかわらず人形浄瑠璃はなくならなかった。そして、近松門左衛門はじめ才能のある作者は、歌舞伎ではなく人形浄瑠璃のために台本を書き続けた。
江戸時代の中期から、人形浄瑠璃と歌舞伎、つまり人形と人間が同じ芝居を演じるようになって、江戸の作者や観客には、「芝居」とはどういうものなのか、それは人間が演じなくてはならないのかを考える独自の視点が生じたと同時に、それに対するこたえは、端的にいえばかならずしも人間が芝居を演じる必要はないというものだったのですね。
ヨーロッパの場合は、人形浄瑠璃のような本格的な人形芝居の伝統がなく、芝居といえば当然のように人間が演じるものなわけで、それが「近代演劇」まで続きます。
日本の芝居も、明治維新のときにヨーロッパの演劇観と接し、歌舞伎は実は演劇だったんだということになって急速にリアリズムの方向に傾きますが、そうじゃなくて、本来の歌舞伎は、人形浄瑠璃とともに「芝居」の一翼をになっていて、そのなかで、「身体性」や「リアリズム」を問題にしてきたわけです。逆に人形浄瑠璃は、「リアルな感動」を歌舞伎に奪われて、それとは別の方向に存在理由を探し続けてきた。それは一種の「象徴主義」だと思うんです。そして、芝居の感動は、「生身」という意味でのリアリティにはないということを自覚したことで、非常に高度化していく。
大雑把に言って、こんな人形浄瑠璃と歌舞伎の状況(関係)が、アニメと実写の関係に似ているかなと思ったのです。