掲示板の歴史 その九
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NO.289  パーリ語経典における「名色」
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/10/19(Tue) 13:14:34
□IP/ 4.27.3.43


以下はパーリ語仏典に見られる「名色」のリスト。
まずは、中村元『スッタニパータ』(岩波文庫)からの抜粋。
  • 七五六 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我を思いなし、<名称と形態>(個体)に執着している。「これこそ真理である」と考えている。(一七〇頁)

    (上詩註)非我なるもの――名称と形態のことをいう(anattani nAmarUpe...... Pj.)。
    名称と形態――nAmarUpa.ウパニシャッドにおいては現象界を意味する語であったが、仏教に採用されて、両者で個人存在を意味すると考えられえた(漢訳では「名色」と訳す)。(三七六頁)

  • 八七二 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、<わがもの>という我執も存在しない。形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」(一九二頁)

    (上詩註)名称と形態――nAmaN ca rUpaN ca. これはウパニシャッドに説かれている二つの概念であって、現象界の事物の二つの側面を示す。(三九四頁)

  • 九〇八 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。
    九〇九 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。(一九八〜一九九)

    (上詩註)名称と形態――nAmarUpaM. 個人存在を構成している諸要素を、古ウパニシャッド以来のこの術語で呼んでいるのである。 それらを――tAni(=nAmarUpAM. Pj.). 本文ではnAmarUpaMと単数になっているのに、註釈文献では複数になっているのは、恐らく、単数のときには一人の個人のnAmarUpaを指し、多くの人々のそれを意味するときには、複数形で示したのであろう。(三九八)

  • 九五〇 名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、――かれは実に世の中にあっても老いることがない。(二〇五頁)
  • 一一〇〇 バラモンよ。名称と形態とに対する貪りを全く離れた人には、諸々の煩悩は存在しない。だから、かれは死に支配されるおそれがない。」(二三二頁)

  • 一〇三六 アジタさんがいった、「(ブッダに対して)わが友よ。智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか?おたずねしますが、このことをわたしに説いてください。」(二一八)

    (上詩註)名称と形態――nAmarUpaM (sg.). この両者が、現実の世界においては個人存在を構成している、と考えられていたことが、よく解る。(四一七)

  • 一〇七四 師が答えた、「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである。」(二二六)

    (上詩註)名称と身体――他の箇所で「名称と形態」と呼んでいるものに同じ。結局、精神と身体とを意味する(nAmakAyA pi vimutto ubhayatobhAgavimutto. Pj.)。(四二四)
以下は、同氏『ダンマパダ』より抜粋。
  • 二二一 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。(四一)

    (上詩註)名称と形態――nAmarUpa. この語は古ウパニシャッドにおいては「名称と形態」すなわち現象界のすべてを意味する。この語は仏教にも継承されて「名称」(nAma)とは人間の精神的方面、「形態」(rUpa)とは人間の物質的側面を意味すると解釈されているが、教義学者たちが無理にこじつけた解釈(――すでにパーリ聖典の散文の中に現われる――)であろう。インド思想一般の用例としてはnAmaを精神と解することは無理である。(一一三)

  • 名称とかたちについて「わがもの」という思いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、――かれこそ<修行僧>とよばれる。(六一)

    (上詩註)名称とかたちについて――nAmarUpasmiM...... このnAmarUpaとは古ウパニシャッドに出て来る語で、「名称とかたち」という意味である。現象界の事物はそれぞれ名称(nAma)をもっているし、またかたち(形態rUpa)をもっている。この観念が仏教にとりいれられたが、rUpaという語は「色(いろ)」という意味もあるので、漢訳仏典では「ナーマルーパ」を「名色」(みょうしき)と訳す。それはあらゆる事象について言えるので、仏教では全現象の総括としての個人存在と同一視され、その構成要素としての五蘊とも同一視され、「色」は色蘊で物質面を、「名」は受・相・行・識の四つの蘊で精神面を意味すると解釈された。(DhammapadathakathA, vol. IV, p.100にもその解釈が採用されている。)(一四〇〜一四一)