掲示板の歴史 その九
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NO.276  ウパニシャッドにおける「名色」
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/09/18(Sat) 18:45:12


岩波『仏教辞典』で、名色について「もとはウパニシャッド哲学で《現象世界の名称(nAman)》と《現象世界の形態(rUpa)》、すなわち概念とそれに対応する存在の意味に用いられていた」と記されていたのは上の記事を読んでいただいてもお分かりいただけると思います。これが本当にそうなのかどうかを知るためにも、平河出版社、佐保田鶴治著『ウパニシャッド』を調べてみることにしました。

以下は本書収録の「チャーンドーギャ・ウパニシャッド>ウッダーラカの教説>一元と多様」の項中、節六・三・[二][三][四]です。ここでは「天地の初めにはただ一つの実有(サット)があったのみで、これが『我は多数になりたい、生み殖やしたいものだ』と考えて火(テージャス)を産み、火が同じように考えて水(アパース)を産んで、更に同じように考えた水が食(アンナ)を産んだ」という主張に始まる教説を説いていて、同引用はそのなかで実有、すなわち神がいかに「名色」に関わったのかが説かれています。
[二]さて、かの神(実有)は『いで、我はこれらの三柱の神の中へこの生命(ジーヴァ)即ち自我(アートマン)を以て潜入して名色を分化し、[三]そして、これら三柱の神の各々を三重にせねばならぬ』と思い回らして、かの神(実有)はこれら三柱の神の中へ生命即ち自我を以て潜入して名色を分化し、[四]そして、これら三柱の神の各々を三重になした。(同四十五頁)
ここで説かれる「名色」は、その後の具体的な記述から考えても、単純に現象に具わった名称と色彩的特徴のことなのですが、同著者はこれに関して次のような註を付けております。
名色(nAma-rUpe)はウパニシャッドでは一つの熟語として、個性あるいは寧ろ個体を表わしている。「名色を分化する」といえば個体を分化することであり、「名色を失う」とは個体性を失うということである。もちろん「名」(nAman)は名称のことで、「色」(rUpa)は色または形を意味する。仏教では一般に、五蘊(人間存在の五要素たる色受相行識)の中の色蘊以外の四つ、つまり心理的要素を総称して「名」と解釈する。しかし、この解釈は合理化されたもので、古代インドにおいては、両者は個体を構成する本質的要素として考えられた。その中で色(形を含む)は個体の形相的な要素を指示し、実質的要素を意味するtanuに対する。名は単に便宜上の符号のようなものではなくて、個体の実質の一部と考えられていたこれは古代人には共通した考え方であって、実名を他人に知られるのを忌み嫌って仮名を通称としたのも、名を手掛かりにして呪法的影響を加えられるのを恐れたからである。シャタパタ梵書の中には名色の両者は梵が万物を支配する二つの力として取り扱われている。(同三三五〜六)
以上の引用を観る限りでは、やはり『ウパニシャッド』において「名」「色」といった場合、それぞれ「(個々の現象の)名称」と「(個々の現象の)形態」のことであり、また前者は私たちが日常で考えているようなただの名称ではなく、特定の存在を「その存在自体」として存続させるために不可欠な要素の一つとして扱われていたことが分かりますね。