掲示板の歴史 その八
▲[ 179 ] / 返信無し
NO.258  果分可説論
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/09/04(Sat) 17:08:59


以下は歴史図書社『眞言密教聖典』からの引用である。
上の記事群に見られる空海の主張を掻い摘んで総括したような内容なので紹介したい。


一、立論の大要

此に果分といふは、固より宗教的の名稱にして佛の境界を指したるものなり、左れど若し之を哲學的にいふときは實在界の事にして宇宙の本體論を指せるものなり、佛の境界や實在界のことは到底言説の及ぶ所にあらず、よし言説を以て解釋し得とするもの、夫は假説なり、比喩なり、到底眞實を寫せるものにあらず、換言すれば現象界の言語思慮を超越せるもの、即ち實在界なり、衆生の分別を超脱せるもの佛の境界なりと稱するは、一般の宗教、及哲學の主張する所たり、不可思議、不可稱、癈詮談旨、言亡慮絶、百非洞遣四句皆亡、果分不可説と云へるは、皆是の意なり、然るに弘法大師は辯顯密二教に於て、先づ開巻第一に釋摩訶衍論引き、五重の問答を立て、此の果分實在の境界は言説を離絶せりと為す考を以て、未だ無明の分位なり、未了の考へなりと為して之を排斥し、更に五教章、十地論を引いて、因分可説とは顯教の分齊、果性不可説とは即ち是密藏の本分、換言すれば因分を説くは顯教の本領にして、顯教にて説く能はざる果分の境界を説くを以て密教の本分なりと為し、而してその果分可説の事は金剛頂經に分明に説けりと斷言し、夫より又天台止観を引き、此の宗の所觀は三諦に過ぎず、一念の心中に即ち三諦を具し、此を以て妙と為す、彼の百非洞遣四句皆亡、唯佛與佛乃ち能く究竟して盡くすといふ如きに至つては、此宗他宗此を以て極と為す、此れ即ち顯教の關楔なり、但眞言藏家にては此を以て入門と為す、此れ秘奥にあらずと云ひ、又慈恩の二諦義を引き、此の章の中の勝義勝義、癈詮談旨聖智内證、一眞法界、體妙離言等とあり、是の如き絶離は即ち是れ顯教の分域なり、言く因位の人等の四種の言語皆及ふこと能はず、唯自性のみあつて、如義眞實の言を以て能く是の絶離と境界を説く、是を眞言秘教と名く、金剛頂等の經是れなり云々。又更に智度論、般若燈論等を引き、中觀等は諸の戯論を息めて、寂滅絶離なるを宗極と為す、是の如きの意義は、皆是れ遮情の門なり、是れ表徳の謂にはあらずと論じ、後に楞伽經、五秘密經を引いて、顯教所談の言斷心滅の境とは所謂法身毘廬遮那内證智の境界なりといひ、夫より分別聖位經に依って、是の如き諸佛菩薩は、自受法樂の故に各々自證の三密門を説く云々と結論せり。(九四〜九五頁)

二、果分可説の意義

既述の如く、果分又は實在界は言説の及ぶ所にあらず、たとひ之を説くも皆之れ假説なりと為すは、宗教、哲學の常途の説にして、佛教の所謂顯教も亦之れに洩れざるなり、然るに密教と稱する眞言宗にては、痛く之を排斥せり、果分可説とは積極的宇宙観にして、又表徳的佛陀論なり、すべての物は之を消極、積極の二方面より觀察することを得るは今更いふまでもなく、いづれを非とし、いづれを是とすべきにあらず、又両者併立して敢て衝突するものにもあらず、只物それ自身、例すれば、佛陀それ自身、實在それ自身の眞際は、果して消極的のものなるべきか、將又積極的のものなるべきか、彼の起信論の如く離言眞如を眞實とし、依言眞如を假設とすべきかといふに、物の本質は如何にしても積極的なり、活動的なりと云はざるを得ず、佛陀も實在も本來は謂ふまでもなく活動的なり、積極的なり、然るに之を消極的に寫象するは、他のもの、他の盲動と區別するが為なり、所謂遮情に過ぎざるなり、例すれば亂暴なる小児に擇ぶ為めに、静なる小供といふといへど、静なる子供そのものは決つして無動にあらず、死人にあらず、正しき活動を為しつつあるものなり、故に實在と現象、佛と凡、正と暴と、互に相對して両者を分別するには、固より消極的遮情的説明も必要なり、適當なるべきも、若し絶對的にその物の本質を表示するには、如何にしても、積極的表徳的説明ならざべからず、弘法大師が筆舌を極めて顯教は遮情門なり、密教は表徳を主とせり、遮情の説は未了なり、未だ絶對的に至らずといへるは、實に偉大の見識なり、眞言密教の超越せる立脚地は實に表徳門積極的の見地に在るなり、然らばその果分は如何なるものか、實在界は如何に積極的に寫象すべきか、此は即ち境理の所に於て論すべきものにして六大無碍論即事而眞論、當相即道論等の如きは、此の深義を解説したるものなりとす。(同九六〜九七頁)