掲示板の歴史 その八
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NO.240  『弁顕密二教論』
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/06/17(Thu) 17:55:45


『弁顕密二教論』において、空海は『華厳五教章』「第一巻」「第四巻」や『十地論』などを引用して顕教における「因分可説・果分不可説」の教説を紹介している。ただし、ここではまだ「果分可説」という語は登場していない。
空海はまた、同著にて、次のように言葉の問題について触れている。
  • 「序」より
    三密門の境界は、等覚位や十地にある菩薩でさえも入ることができないことから、『十地経論』『釈摩訶衍論』には、この境界は人の機根(宗教的素質)を越えていると説き、『成唯識論』『中論』では、言語で表現することも、思慮することもできない境界であると説いている。このようにつき離した説は因位(凡夫)の立場であって、果人(悟りを得た仏の境地)からの説ではない。(『空海全集/第二巻』一五〇頁参照。パラフレーズ済)

  • 『中論』など三論宗の宗義においては、もろもろの無益な議論を息め、寂滅にして絶離りした境界を、その究極とするのであるが、このような趣意はみな否定的な解釈による立場[遮情門]であって、密教の解釈によるような積極的に真理を表示する立場[表徳門]の趣意ではない。このことは、『大智度論』の論主が自ら仏道に入る初門と断言していることに、意(こころ)ある智者はよくよく考えてみるべき問題のあることが理解できよう。(同一七五頁参照)

  • 『入楞伽経/巻八』には「大慧よ、応化仏は人々を教化するにあたって、真実の相を説くのではなく、また仏の内なる証(さとり)の境界とか、大聖如来の智慧の境界を説くのでもない」とある。つまり、三身(法身、報身、応身)による説法にはそれぞれ限界があり、応化仏は内証智を説かないことは明らかである。ただ法身如来のみがこれを説くことができる。(同一九四頁参照。パラ済)

  • (『大日経』から引用して)秘密主よ、世尊の大智にもとづく灌頂に入ることができれば、[教えを象徴する]陀羅尼形(真言)をもって(自ら受用する)仏のはたらきを示現することができる。そのときに大覚世尊は、すべての人々に応じてその前に住し、仏のはたらきを施し、三密平等の法門を説かれるのである。(同二〇八頁。パラ済)
空海はまた、ナーガルジュナの『釈摩訶衍論/第五』を引いて、空海は「言説に五種ある」と説いている。
以下はその内訳である。
  1. 「相言説」
    色(現象)などのもろもろの相(色・形)に執着して生ずる
  2. 「夢言説」
    過去に経験した虚妄の境界を思い起こすことで、夢を見た後に目覚めた時、それが虚妄の境界だから真実ではないと知っていても生じる
  3. 「妄執(執着)言説」
    過去の三業(身体・言葉・意)に執着して(怨愛・悲喜などの念から)生じる
  4. 「無始言説」
    無限の過去[無始]よりこのかた無益な議論に執着して煩悩の種子がまつわりつき、これによって生ずるもの
  5. 「如義言説」
    真実の空であり、有・空・中の三諦を悉く離れて「三摩地の法を説く」法門、すなわち「自性法身が説く秘密真言の三摩地門」のことであり、『金剛頂経』十万頌の経典などのこと
空海は上にリストした最初の四項目を『入楞伽経/巻三』から引いていて、これらはすべて顕教の言葉であって空無であり妄語であるとし、「如義言説」によってのみ真実、すなわち如来の境界を語り得るとしている。この「如義言説」は、「仏事(仏のはたらき)を示現する」という「陀羅尼形(真言)」と同義(あるいはほぼ等価)であるとも考えられるが、ここでは飽くまでも経典(特に密教経典)に説かれる言葉を指している。ここに、空海の「経典至上主義」が見られるといってよいだろう。
また空海は、法身如来は常にあらゆる場所において説法しているが、それにも関わらず、心の不浄な人々はこれを理解しないと説いている。