掲示板の歴史 その八
▲[ 179 ] / 返信無し
NO.239  『秘蔵宝鑰』
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/06/17(Thu) 16:39:11


空海はその著書『秘蔵宝鑰』で「十住心」という十の精神的段階を説いているが、そこで彼は教説と言葉とについて次のように触れている。

  • 「第七覚心不生心」より

    「もろもろの正しくない無益の言論を絶って、静まってなすところがないという境地は、悟りの極限に至ったものだといってよいか」

    という問いに対して、空海はナーガルジュナの『釈摩訶衍論/第五』を引いて次のように答えている。

    清らかな本来のさとりは遥かな過去からずっと、自力による修行をまって現れるものでもなく、他力を得なくてはならぬものでもない。本性の徳が完成されており、本来の智慧を具えている。また、四句を越え、また五辺を離れたものである。自然という語も不適当であり、清浄という心も不適当である。言語表現を絶対的に離れている。このような境地は、まだ無明(根源的無知)の領域であって、悟りの智慧の境地ではない。(『空海全集/第二巻』一〇一頁参照。パラフレーズ済)

  • 「第八一道無為心」より

    空海は

    「有無を超越した不二を示し、心(認識主観)と境(認識対象)の対立を滅ぼして言語表現を断った大空の境地に立ち現れる唯一の真理の世界、唯一の実践、ありのままの理法は究極の仏であるとすべきだろうか」

    という問いに対して、同じく『釈摩訶衍論/第五』を引いて次のように答えている。

    唯一の真理の世界の心は、百非(空)をもっても否定しえず、千是(仮)をもってしても肯定することはできない。空と仮との中間である中もない。中もないから、天の摂理に背いて二律背反する。二律背反するから、すぐれた雄弁も断たれて止まり、よく思慮しようとしても手立てがなく茫然としている。こうした境地は無明であって悟りの境地ではない。(同一一〇頁参照。パラ済)

  • 「第十秘密荘厳心」より

    真言の教えは一つ一つの言葉、名称、単語の意味、文章が、それぞれ限りなき意味を持つ。劫という気の遠くなるような時間をかけても、それは究め尽すことは困難である。また、字にはそれぞれ三つの意味がある。いわゆる声と字と実相とである。また、二つの意味がある。すなわち字相と字義とである。また、一つ一つの単語などに淺略と深秘との二つの意味がある。これはうかつに説くことはできない。もしも、そのとおりに説けば、素質のない者は疑いをいだいて非難した結果、現世において仏になれずに死後は無間地獄に落ちるであろう。このため、応化の如来は秘して語らず、伝法者たる菩薩もまたそのままにして説かないのである。(同一四〇頁参照。パラ済)