掲示板の歴史 その八
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NO.238  『解深密経』に見られる「不可言説」
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/06/02(Wed) 17:13:29
□URL/ 『解深密経』目次


『解深密経』には「不可言説」の言及がある。
仏は一切の思議分別を超えた真理の理に目覚めており、それによって一切の者を導いていて、諸々の菩薩は心恒に仏と同じく真如を証しており、凡夫はただ思議分別の中に迷っているとする。つまり、真如や涅槃等の「勝義諦」は、一切の思議分別、言説、論議を超えて絶対自由の行を具えているが、「世俗諦」であるところの思議分別は、その言語、論議など、思議分別の境に限定されており、前者に進むことがないという。そして、思議分別(「世俗諦」)の境界にある者は、一切の思議分別を超えた真如の相については、思議分別することも、比べはかることもできないとする。
このことは、問答の終わりの次の頌に要約されている。
一切の思議分別を超ゆる真如は 内に深く証し 行い礙りなく 言語表示を絶し 諸々の論議を息す
(内證無相之所行 不可言説絶表示 息諸諍論勝義諦 超過一切尋思相)
世俗常識を超越した「勝義諦」は言語表現を絶していて、心に真如を証する菩薩や仏によってでなければ説かれることができない。
これが『解深密経』における「不可言説」である。

また、『解深密経』において、仏は凡夫には阿頼耶識を説かないとする。
アーラヤ識は甚深微細なり その開展する性能は激流の如し 我れ、凡夫愚夫にはこれを説かず 彼らは恐らく、これを以て我(が)なりと分別せん
(阿陀那識甚深細 我於凡愚不開演 一切種子如瀑流 恐彼分別執爲我)
ここにもまた、聴く側が然るべき前段階を経ないうちに言語変換されると「原理」として固定化してしまい、結果不都合が生じることを危険視する立場が観察される。これもまた「不可言説」の一環だといっていいだろう。