掲示板の歴史 その六
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NO.211  無駄な仏教学と胡散臭い体験談
□投稿者/ 大閑道人
□投稿日/ 2004/04/12(Mon) 07:09:25


体験談は、自分が聞く場合の事で、自分が語る場合は、決して胡散臭くない。
なんと身勝手な!ではなく、当人にとっては、それは事実であり、いつまでも変化しないものとして、ある。心にある。(これがまた、胡散臭い表現)
永遠なる事実として、心の中に納まっており、それが自分の中心(=もしかして、自己)の中心部に鎮座し、そして、これが動かない限り、行動が生じない。
逆に、これが動き出すと、どうしても止まらない。行動が止まらない。なぜそういうことをするのかも、不明なまま、その動きに従うしかない。
自動書記などはそういう現象だろう。神がかりともいう。

でも、そういうことを直接体験として知っていると、経典を読んだり仏教「学」の本を読むときも、二重に判断しながら読む。
文献学的に読む、というばあいと、自分の体験に照らし合せて真偽を判断しながら読む、と。
また、自分の経験が経典に書いてあるものに出会うと、ホッとすることも事実。
(これを「経証」というのか、と思ったりする)

で・・・・(続きはまた)