掲示板の歴史 その六
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NO.206  仏教学という「無駄」
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/04/10(Sat) 14:56:10
□URL/ 〇四年四月五日


しり知り職り識って智の初めに暗く、わすれ忘れ諠れ愃れて忘却の終りに冥し(含笑)


・・・・・・そろそろいい加減状況が整ってきたようなので、ひとつ告白しておきたいと思う。

私は、仏教の勉強が何の役にも立たないことを知っている。
そんなものは勉強するだけ無駄だ。
仏教の理念を自分のものにしたいというのならば、基本部分さえ齧っておけばよい。
そうすれば、その本質は大体分かる。
この教えは、同じことを手を代え品を換え、ただ繰り返し唱えているだけだ。
それを現実に役に立てるつもりがあるなら、その基本を実践に移すだけでいい。
そうすれば、まさに芋蔓式にすべての修道的行為が伴う。

それに比べて仏教の学術的研鑽は、現実生活において何の役にも立たないといっても過言ではないだろう。
深く知れば知るほど、「だからどうした?」という種類の知識が多くなる。
それだけではない。
学者は儲からないのだ。
教員も然り。
坊さんたちはそこそこ儲かるらしい。
私の知り合いの坊様は、年に何回も家族を連れて海外旅行をしている。
だが、私はあくまでも学者に憧れた。
一度は想い極まって大学院にも入ったが、学者になっても儲からないことが判明したため、私は結局その道を捨てた。
父の新しい仕事を援助するためにも、母の損なわれた體を治すためにも、私はどうしても稼がねばならなかったのだ。

今の会社に入ったのは三年ほど前だったが、それから数ヶ月の間、不思議なことに私の仏教への興味はほぼ完全に失せてしまっていた。
「こんな何の役にも立たぬことを」という気持が強くなり、それまで蒐集してきた山のような仏教書には見向きもしなくなった。

しかし、実はこのとき、私は二つの理由で苦しんでいた。
一つは、それまで生涯一貫して好き続けてきたものが、突然無意味なものになってしまったということ。私を構成してきた大きな要素が突然にして喪われたため、自分がよく分からなくなってしまった。アイデンティティ・クライシスというヤツである。
もう一つは、私が本能的に仏教学を学ぶことを望んでいながら、表面的にそれを否定しようとしていたということだ。

だが、その本能的な学術的興味は、仕事に馴れ環境が整うに従い、精神的余裕の回復に伴って徐々に復活した。
やがて私は、自分が仏教を好いていたのは、単純に仏教書を読んだり漁ったりすることが好きだったからなのだと気づいた。
仏教学は楽しく、仏教は面白い。
そこに求めるものはただの快楽であって、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
それがただそれだけのことであっても、不都合なことはまるであり得ない。
釣り好きが釣りを楽しむように、パチンコ好きがパチンコを楽しむように、私は仏教を楽しもう。
私は仏教の布教者ではない。
仏教で遊ぶ「享楽主義者」なのだ。

この開き直りとも諦めともつかない決心があったからこそ、私はこのサイトを作ったのである。


よく私のサイトの一部を見ては、「経典の文字をなぞったところで云々」などと分かったようなことを偉そうにいう人が少なからずいるようだ。
彼らの多くは自分たちが悟っている、実践を経て「体験」をしているなどと思い込んで自惚れている。こうした人々は、経論をせっせと勉強する私を見るにつけ「コイツは経典の文字を読んで必死に悟ろうとしている」などと勘違いするだろう。ある者は自分のやる気のなさや無能に基く僻みから、ある者は「排他的実践主義」等の宗教的捉われから、そしてある者は仏教そのものに対する敵意から、「経典の文字をなぞったところで云々」「仏教は現実に用をなさない」などと申し立てる。

私は、私を含めた世の中のありとあらゆる人々が本質的に求道者であると考えているし、求道という行為も否定しない。
人の世界に死と関係とがある限り、多かれ少なかれ、われわれは皆、常に何らかの決着をつけたがっているはずだ。
そして仏教はそこにとても現実的な示唆を与えてくれる。
この示唆に従い、人類の平和と幸福を願って社会に貢献しうる仏教系教団があることも既に確認している。
(少なくとも某有名カルト系教団やその末裔や○○の○学のことではない。 笑)

しかし、その事とこのサイトにおける私の仏教研鑽とは、まったく別次元の問題なのだ。
私の行為は単なる趣味道楽以外の何ものでもない。
これは学者に憧れた者の学者ゴッコの域を出ない。
そのこと自体を馬の骨どもに否定される謂れはない。
・・・・・・もちろん、理解してもらう必要もない (苦笑)

誰が何と言おうと、私は心底仏教学という「無駄」を愛している。