掲示板の歴史 その六
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NO.180  『二入四行論』
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/02/02(Mon) 17:54:36


私はこれまで、「不立文字/教外別伝」の源流が偽経『大梵天王問仏決義経』の「拈華微笑」の逸話や『楞伽経』に説かれる「四十九年、一字不説」にあるらしいこと、そして、それが「排他的実践主義」であり「文字伝達(経典)否定主義」を理想とした姿勢であることを述べてきました。
そのこと自体には問題はないと思うのですが、どうやらそれが禅仏教のそもそもの姿であった、と単純に考えるわけにはいかないことが分かってきました。

まず、大閑道人さんが仰るように、民間の俗信にみられるような、中国における根強い「文字信仰」への批判であったという可能性もないとは言えません。経典翻訳時に流れ込んだ「文字崇拝」の精神文化に加え、『如来蔵経』のように経典の保持や書写、読誦の功徳を説く経典に見られるような大乗仏教的傾向と相俟って、経典信仰に拍車が掛かったことは容易に窺い知れます。

これは割と有名な話だと思いますが、『景徳伝燈録』』(一〇〇四年/宋代景徳一年成立)などによると、六朝(りくちょう)時代末期(五二〇年頃)にボーディダルマが南インドから中国梁に渡った際、自国の仏教興隆を自慢する武帝に対し「無功徳」と告げたという伝説(=史実ではないらしい)があります。

これが伝説であって史実でないにしろ、この問答のテーマになっているものは「経典信仰」への批判であることは明らかです。
それに比べると、この遣り取りに続く「聖諦第一義」に関する遣り取りには曖昧さが残る。
つまり、「経典信解(理入)」への批判であるとも、かならずしもそうでないとも取れる。

ここで問題にしたいのは「不立文字/教外別伝」「直指人心/見性成仏」というスローガンがいったいいつ出来上がったかということです。
残念ながら、現在私の手元には、この成立年代についてはっきり述べている資料はありません。

とはいえ、ボーディダルマの教えは慧可の兄弟弟子曇琳が『二入四行論』(二〇世紀初頭、敦煌出土)として残していて、これには「仏道を達成するには、教によって宗を悟る理入と、行の実践によって道に証入する行入との二行があり、いずれの道を踏襲してもよい」という内容が書かれている上、報冤行、随縁行、無所求行、称法行といった行入の具体的行法を説いているし、第一祖ボーディダルマから第三祖僧サン(王+粲)にかけては、ブッダがランカー島(スリランカ)で三性説や八識説などを説いたとする『入楞伽経(略して楞伽経)』を所依経典、第四と第五は『金剛般若経』、第六「南宗禅」の慧能は『涅槃経』、「北宗禅」の神秀は『華厳経』をそれぞれ所依経典としていた、つまり「悟りの拠り所」としていたことなどから、少なくともこの段階に至るまでは「不立文字/教外別伝」がまったくといってよいほど実行されていなかったことが分かります。

ただ、『岩波仏教辞典』によると、「(経典否定主義としての)教外別伝/不立文字」は「達磨の語として伝えられているが」「南宗禅で特に強調された」という事実が『禅源諸詮集都序/上』から窺い知れるとあり、これを鵜呑みにすると、あまり学のなかった第六祖慧能が、『華厳経』によって高度に理論武装していた神秀の勢力に対抗するために作り上げた(もしくは強調した)方針だったのではないか、という可能性も浮かび上がってきます。[記事No.181]参照

いずれにせよ、『二入四行論』の寛容な記述が本当にボーディダルマの方針を忠実に再現したものだとすれば、経典否定主義標語であり「祖師禅」の理想としての「不立文字」は、やはりボーディダルマ直々の言葉などではなく、しかも元々は「経典信仰批判」の言葉だったものが、その意味を大幅に歪曲(もしくは単純に誤解)されたものである可能性が高い、と考えるべきなのかも知れません。