掲示板の歴史 その六
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NO.119  臨済宗の和尚さんに尋ねました。
□投稿者/ 大閑道人
□投稿日/ 2004/01/17(Sat) 13:48:46


「公案」という言葉の理解は、済と曹洞では全く違います。
道元を中心とする曹洞では絶対的な真理の顕現として捉えられていますが、
看話禅を説く臨済ではあくまで悟りの門を叩く瓦石としか見ていません。

中国の元代以降の禅では、臨済・曹洞を問わず看話禅が席巻していますから、
「公案」は論理的思考を断ち切る手段、もしくは論理を超えた体験を引き出す道具と考えられていたようです。
もちろん、それらの公案には、その言葉を吐いた禅僧の境涯、論理を超えた心の在り方が示されているわけですから、それを透過し(理解するのとは違います)
我が物にすることに真の価値が見いだされることになります。

その意味では、公案は真理が体現されたものと言えることにもなりましょう。

質問された方の文章の中に、「諸宗の協議や思想哲学を論争しながら、お互いの研鑽を深めていく」という
表現がありますが、この立場の否定こそが禅であり、知的な、論理的な追求からは決して宗教的体験は生まれてこない、
真理の体認はできない、という反省に立って、自らの心に立ち返ることを目指し、
そのための手立てとして用いられているものこそが公案なのです。あくまで真理は「教外別伝、不立文字」であり、また個々人それぞれの足下の問題であって、対象化、一般化できないのだから、
公案を通して自分で体認するしかないということです。

体験は冷暖自知であり、人に理屈で説明できるものではありません。公案は、経典のような絵に描いた餅ではない、と言ったら、教学の方に怒られそうですが…。

お答えにならないような答えで申し訳ありません。
以上のような回答をいただきました。