掲示板の歴史 その四
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NO.73  ガンダーラ美術と大乗仏典・文献
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2003/12/04(Thu) 16:14:16
□URL/ http://members13.tsukaeru.net/qookaku/


はじめまして、坤さん。
書き込みありがとうございます。
ご質問についてですが、私の現在知る限りではだいたい次のようなことがいえます。

まず、ガンダーラの仏像というのは主に浮彫の仏伝図(「托胎霊夢」「誕生」「灌水」「幼年〜青年期」「宮廷生活」「出家」「苦行」「降魔成道」「初転法輪」「諸々の説法活動」「涅槃までの変化に富んだ生活」「涅槃」)、礼拝対象としてのゴータマシッダールタや弥勒菩薩、観音菩薩などの単独尊立像、あとは少ないながらも本生譚の浮彫図像がいくつか残っていると認識してます(間違ってたら教えてください ^^;)。

初期大乗仏教経典、すなわち『八千頌般若経』『維摩経』『法華経』『華厳経』『無量寿経』『阿弥陀経』は、その逸話こそ描かれなかったとはいえ、登場人物としては多く菩薩立像が造られ、明らかに大乗菩薩信仰が当時のガンダーラで盛んだったのだろうと推測できます。ただし、大乗経典の段階ではまだ仏像の具体的な作法が説かれなかったため、経典テキスト中の記述にガンダーラ美術の「図容の直接の典拠」を求めるのは難しいのではないかと思います。
(仏教文献において、正式に図像の姿形、装飾などに関する詳細な記述が述べられるようになるのは、如来の相好に関するものを除くと密教系の経軌・儀軌の登場を待たねばなりません)

ガンダーラに残る本生図のうちでもっとも多い『燃灯仏授記』の「授記」や「(大乗の)菩薩」の思想も大乗特有の菩薩思想なので、この逸話が掲載されている『四分律』や新しい菩薩の概念を盛り込んだ『大智度論』『ラリタヴィスタラ』『マハーヴァストゥ』などの記述が資料として有用なのではないでしょうか。

また、すでにご存知とは思いますが、仏像の尊容としては、仏と転輪聖王に具わり、後に大乗図像学で不可欠な属性とされる「白亳」「頂上肉髻」「輪状に長く垂れ下がる耳たぶ」などの「特相(ラクシャナ)」が見られます。この特相、相好は『阿弥陀経』中、阿弥陀仏の願で若干ながら触れられていたり、『仏本行集経』などにも説かれています。これらの相には異説があり、岩波『仏教辞典』によると『観仏三昧海経』にガンダーラの仏像の特徴を反映したと推測される「(仏は)髭を有する」という記述があるそうなので、そのあたりを調べてみるというのもよいかも知れません。

それから、吉永邦治著『東洋の造形〜シルクロードから日本まで〜』(理工学社刊・一九九四)によると、宝積部系の『如来不思議秘密大乗経』第十八「金剛杵」(成立・編集年代は推定紀元後一世紀〜ニ世紀)にはガンダーラの浮彫仏画に早期から描かれていた金剛力士=執金剛神がいかに仏典で説かれているかについて、次のように書かれているとあります。図像について書かれているわけではないので参考になるか分かりませんが、取り合えず引用しておきます。
むかし、釈迦が、中央インドの霊鷲山において、多くの人びとに説法されていたときのことである。金剛の杵をもって、釈迦のそばにいつもいる金剛力士を、阿闍世王はみて、「あの金剛の杵は、どれぐらい重さがあるのか」と思った。この阿闍世王の心を読みとった金剛力士は、それに応えて、「はっきりとした重さがあるわけでなく、杵をもつ人の心の持ち方いかんによって、重くも軽くもなる」といった。そこで、阿闍世王は、自分の力を金剛力士に誇示しようと思い、試しに金剛の杵をもち上げてみることにした。しかし、全身の力を振り絞って杵を動かそうとするのであるが、少しも動かないのであった。
このことをそばで見聞きしていた釈迦の十大弟子の目建連も、帝釈天に勧められて、その杵を、神通力を使って動かそうと試みたのだが、微動だにしないのであった。
そこに、金剛力士が杵のそばに進み、なんぴとも動かすことのできなかった金剛杵を、かんたんに取り上げて、空中に高々と飛ばしたり、手にもって羽根車のように回した。その偉大な力に感嘆し、人々は金剛力士に向かって深く礼拝した。
そこで、阿闍世王は、釈迦の前に進み出て、合掌して、「どのような修行を積むと金剛力士のような神通力を得ることができるようになるのか」と釈迦にたずねた。釈迦は、それに応えて、次のような十法を修行したからであるといった。
「第一は、自分の命がなくなっても正法は捨てない。第二は、正直で謙遜の心をもち、高慢にならない。第三は、弱い人々をあわれみ、害を加えない。第四は、飢えている人々には食物を与える。第五は、恐怖におののく人々を安楽にする。第六は、病気に苦しんでいる人々を治療する。第七は、貧乏な人々に恵みを与える。第八は、仏塔や仏像を見れば、そこを清める。第九は、心のこもった言葉をもって、人々を慰める。第十は、荷をもって疲れている人々をみたら助ける」

この他にも、東京美術刊、錦織亮介著『天部の仏像事典』によると、『大宝積経』に「昔、勇群という転輪聖王がおり、千二人の王子があったが、千人の王子は発心成仏して千仏となり、二人の王子は一人を法意、もう一人を法念と名付け、法意は金剛力士となって兄の千仏の法を護持することを誓い、法念は梵天となってこれらの仏に説法を請うことを誓った」(五四頁)とあり、また『増一阿含経』『大宝積経』『法句譬喩経』などにはこの尊格が釈尊の「倶生神(護る者と倶に生まれる神)」として常に周囲に侍る姿のみを淡々と述べられ、密教系の『摂無礙経』でようやく詳細が説かれるようになったとあります(五五頁)。

今分かることといったら、だいたいこのような感じでしょうか。

ちなみに、私はガンダーラ初期というのは紀元一世紀末頃から三世紀初頭までと考えています。この想定に問題があったらお知らせください。

何か面白いことが発見できたら教えてくださいね(^_^)