掲示板の歴史 その二
▲[ 57 ] / 返信無し
NO.68  「蘇」
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2003/12/02(Tue) 16:06:56
□URL/ http://members13.tsukaeru.net/qookaku/

下記は「蘇」に関する記事資料の引用です。
いや、驚きました(^^;)
まさか本当に健康食品として販売されているとは思ってもみなかったものですから。
これらのサイトのいくつかに行くと、チーズ系サンプルの写真が見られます。

「岡山畜産便り」より
昭和の醍醐味
藏知 毅
 味覚の最上のものを醍醐味と言うが,その醍醐とは何を指すのであろうか。
 涅槃経の14に「牛に従いて乳を出し,乳に従いて酪を出し,酪に従いて生蘇を出し,生蘇に従いて熟蘇を出し,熟蘇に従いて醍醐を出す,醍醐は最上にして之を服すれば衆病皆除く」とある。
 延喜,民部式によると「作蘇の法」として次の様に記してある。
「乳大一斗を煎じて蘇大一升を得」
 これから考えると「蘇」と言うのは今のクリームに当るのではないかと思われる。そこで醍醐は精製したクリームかチーズか又はバターに相当するものであろうかと考えられる。
 仏教徒が牛乳やバターやチーズを忌避しだしたのは何時頃からのことか判らないが,皮肉なことに,お経分の中に乳製品が味に於て最上であり,百薬の長であって,万病が皆治ると書いてあるのである。流石に印度から出た教えであると感心させられるのである。
 仏教は日本の農業に数え切れぬ程の功績を残してくれたのであるが,そのお経の文句の通り,僧侶や信徒が昔から日本にも牛乳やバターやチーズを普及してくれて居たら今日日本の酪農業は相当発達していたであろうにと言いたくなるのである。
 それでは西洋式酪農法が輸入された明治以前には酪農が日本には無かったと言うと,実は立派にあって奨励策さえ講じられて,醍醐味を満喫とまではいかなくとも,相当に発達していた形跡があるのであるが,何時の頃からか衰微してしまったのである,洵に惜しいことであったと思う。恰も数学が日本独自のものが発達して世界最高度に達し,円周率の算出など日本が1番ではなかったかと言われた程であったのが,徳川末期には衰微して西洋数学が入るに及んで御破算からやり直したのと軌を1つにするものであると言うことが出来る。
 岡山地方の古い乳製品については次の様な文献がある。前述の延喜,民部式によると,次の如き「諸国貢蘇番次」の規定があり,それによると全国を6区に分ち朝廷の御用として毎年各地から蘇が献じられていたが岡山地方はその第6番となって居り

 備前国 10壺
 備中国 11壺
 美作国 11壺
 讃岐国 13壺
 伊予国 12壺

 云々となっているのであって,岡山地方も古くから乳製品が重要な産物として献上されていたのである。これから考えて来ると現在この地方で専ら農耕作に飼育されている和牛からは相当に搾乳されたものであることが判る。その頃の搾乳量は同じく民部式によれば
 其取得乳者,肥牛日大八合,痩牛減半,
 とあり肥痩の程度によって搾乳量も異っては居るが大体今日の和牛の中位の泌乳量はあったものと考えられるのである。
 この和牛は明治になってから洋種の血が混じて,一段と泌乳量は増加した筈である。斯く考えて来ると耕作に最適の和牛も同時に搾乳にも供することが出来るのであって多角経営を必要とし,生活改善を要する農家が今日にも手をつけてほしいことは和牛の搾乳であって,将来和牛の改良を行うことによってその搾乳量は更に増加する可能性は充分にある。
 昭和の醍醐味を満喫する者は将に雌牛を持っている農家である。
長野県薬剤師会より
蘇 (酥) (そ)

 酥とは死の渕にあるものが、蘇生する程の薬効のある栄養食品だとして、畏怖の念をもってたたえた敬称であるという。
 984年丹波康頼によって円融上皇に奏進された「医心方」の、巻29〜30は食養法である。食養とは、食物のもつ薬効的部分を積極的に取り入れて、日常の体調バランスを保ったり、病の治療に充てることである。その巻30に蘇が取り上げられている。蘇は牛乳から作られる。人類が牛とかかわりをもったのは、後期旧石器時代であるというから、気の遠くなる話である。しかし古代オリエントには原牛が生息しており、6世紀半ばのトルコ高原の遺跡では、そのことが証明されている。中国の伝えによれば蘇は外国の食品で、中国へは益州(えきしゅう・四川省)に入り、牛乳からまずは「酪(らく)」を作り、酪から「蘇」を、「蘇」から「醍醐(だいご)」を作ったとある。現代でも使われている「醍醐味(だいごみ)」の語源はここから発祥しているが、その意は、本当の面白さ・窮極の味わい・神髄、などの意を華麗に代弁する言葉である。しかし当時の説明によれば、醍醐の味は絶妙であることを讃えつつも、それは黄白色で餅のようで、大層甘く肥る、との註釈がついている。蘇を作るには新鮮な牛乳が必要となるが、日本の朝廷では飛鳥時代の頭初(仏教伝来のころ)、「牧(まき)」を開設したことが知られているから、牛の放牧も始まっていたに違いない。そこで得られた蘇は、ほんの一握りの人々の美容と不老長寿のためにのみ、供せられたことであろう。尚、丹波康頼の食養に関するものは、総て「黄帝内経太素」からの引用である。しかし、この書は、奈良時代には早くも医学教育のテキストに使われていたにもかかわらず、中国・日本共に「亡佚書(ぼういつしょ)」と断定されてしまった。
しかし江戸後期、京都仁和寺に、その写経の秘蔵が発見された。それは驚くことに、頼勝より数えて八代の、鍼博士・丹波頼基の手写したものであった。現在は国宝となっている。幸甚なことに、1987年(昭・62年)に漢方界の重鎮、小曽戸洋先生によりその意釈本が上祥された。

撮影・文 帯川 秀富 氏
ときのたまご』内「平安謎ぐるめ」より
牛乳を飲むという習慣は、日本では既に飛鳥時代には王族を始めとする支配者階級に広まっていました。牛乳が庶民的なものとなったのは近代になってからですが、実は歴史は長く、古代から牛乳から各種の珍味が作られていたのです。
中でも有名なのが『蘇(そ):または酥』と呼ばれる、牛乳を長時間煮詰めて作った食品です。飛鳥時代や平安時代の文献などにも度々その名が記されている、とても有名なもの。

「涅槃経」には「蘇」の作り方が次のように記載されています。
譬えば牛従り乳を出し、乳従り酪を出し、酪従り生蘇を出し、熟蘇従り醍醐を出す、醍醐は最上なり。若し服すること有る者は、衆病皆除こる。
所有の諸の薬は、悉く其の中に入るが如し。


他にもいろいろ資料を調べた上での「蘇」を作るためのわたくしの解釈。
とりあえず、煮詰めろ。



2Lの牛乳を厚手の平鍋に入れ、牛乳が泡立たない程度の極弱火で温めます。
表面に生じる被膜(熱しすぎたホットミルクの表面に張る、あの膜です)を焦がさないように、丹念に攪拌を続けること4時間。
被膜が厚くなり、かき混ぜる手に重みを感じるようになってきます。
更に3時間ほど続けて行くと、真っ白だった牛乳が褐色の粘りのある物体に変化します。気を抜くと焦げ付いてしまうため、手を休めずに練り上げます。
十分に水分が飛んだところで型に入れ、しばらく冷やして出来上がりです。
牛乳2Lから一辺10cm、高さ2.5cmほどの正方形の「蘇」が完成。
所要時間、7時間強。

冷えて固まった「蘇」は、不思議な乳臭さ!(牛乳の最終進化形態ですしね:笑)
「ママの味のミルキー」や、ナチュラルチーズに近い匂いがします。
しっとりとしていて、力を加えると、ほろりと崩れる柔らかさ。

気になるお味の方ですが…これは、驚き! 美味なんです(*^_^*)
お砂糖は一切加えていないのですが、仄かな甘味があります。
温めただけでお砂糖を入れていないホットミルクを飲んで、甘味を感じることがありますよね? あの甘味です。
歯触りはサクサクとして、まるでクッキーを食べているみたい。
後味にほんの僅かな苦味が感じられて、今まで食べた事のない新食感です。
家族も驚いていました。少し前に味も素っ気もない胡麻油風味の「唐菓子」を食べさせた後なので感激が更に深まったみたいです(^‐^)b

7時間くらいお鍋と親密な関係を築くのを厭わない方は、ぜひご自分でも作ってみてください。あなたの家が素敵な乳臭さに包まれます。
ちなみに私は読書のページをめくるたびに鍋をかき混ぜ、DQ4の戦闘に突入してコマンドを入力するたびにかき混ぜ…と云った具合に、非常に有意義な室内軟禁状態の1日を楽しみつつ過ごすことができました。
(自室に持ち込んだ灯油ストーブの火で作りました。)
余談ですが、中世ヨーロッパの料理書では、材料を煮こむ時間の表示を「(聖書の)詩篇何章を読む長さだけ煮る」と云う具合に書いていたそうです。
日本で例えるならば「般若心経○回唱えるだけ煮る」…? 個人差はいかに。。

さて、先述の「涅槃経」でこれを食せば病気が快癒する…と褒め称えられていた「蘇」を始めとする乳製品ですが、確かに栄養価は高そうですね。
私の作った「蘇」は牛乳の栄養価から単純に計算して、大きめの消しゴム大に切った一切れが82KCalほど。
火を止めてからもう少し練れば、もっと食感は滑らかになったはず。
みるく工房飛鳥より
明日香村のすぐ近くの西井牧場の乳製品。
当店の大人気商品です。店長オススメ

西井牧場の乳製品

遥かなる歴史のロマン薫る
古代のチーズ飛鳥の蘇
万葉の時代、飛鳥は日本の首都でした。新益京と呼ばれた藤原京は新しく国家体制もでき、活気にあふれていました。7世紀の末の文武天皇の時、天香具山の南では、飛鳥最大の大官大寺が建設されつつありました。このころ蘇が作られた記録があります。蘇はゆっくりと特殊な方法で煮詰めたチーズの仲間ですが、すでに人々は牛、馬を食べていましたから、貴族のあいだではもう少し前から、この妙なる味が知られていたことでしょう。 おそらく中央アジアの草原のパオの中で生まれた美味な固形物であった蘇は遥かシルクロードを通り、飛鳥の都へ伝わってきたのです。当時の飛鳥には多くの(一説には人口の7割)異国人(大陸人)が住んでおり彼等がその製法をつたえたのでしょう。 ここには高松塚壁画のような人々がいましたが、誰もが蘇を口にすることができたわけではありません。貴族や高級官人など『日本書記』の主人公が賓客を迎える夕べの宴をいろどったものでしょうし、貴婦人の美容と滋味でもありました。 高貴な人々が病に臥すと、薬草とともに蘇の効力にも頼ったのでしょう。つまり蘇は超高級食料でしたが同時に美容と不老長寿の効果も期待されました。良薬口に甘しです。したがって黄色の断片は庶民にとっては夢の食品でありました。 今日、縁あって古代からの珍味は、あなたの口に入ろうとしています。日本のチーズの発祥の地で長い間の苦心によって復元した蘇は、舌の上でまろやかに解けていきます。こつての都が消えてしまったように・・・・・ 製造方法は原乳の牛乳を加熱しながら練って、どんどん煮詰めていきます。32リットルの牛乳を約8時間煮詰めて約4キロの「蘇」ができます。最初は真っ白だった牛乳も数時間加熱したらだんだん薄く茶色に色づき、煮詰まった頃には濃いキャラメル色になります。その煮詰めて固めた物をお弁当箱のような木箱に流し込み冷蔵庫で冷やし固めます。固まったところを8等分して出来上がりです。 味は何故かほんのりと甘く、そしてこうばしい。歯触りはしっとりとしたケーキかクッキーのような感じで、素朴なお菓子の様。
NHKさんや関西の民放テレビ各局さん、それに食の雑誌等でもう何回も取り上げていただきご存知の方もおられるかと思いますが、蘇とは日本における古代乳製品で、牛乳をゆっくりと煮詰めたチーズの仲間ともいうべき食べ物です。そのルーツはシルクロードをさかのぼりお釈迦様がおられたインドに至ります。
飛鳥時代に渡来人が大陸文化を大量に持ち込みましたが、その中に《蘇》の文化もありました。

古文書『延喜式』や長屋王家の木簡などに蘇が作られた記録があり、歴史の教科書にでてきそうな貴族や高級官僚のみに口にできたもので、嗜好品としてまた、美容・滋養の効果を期待して食されたらしいのです。

 西井牧場が"飛鳥の蘇"の製造販売を手がけたのは、今から15年前になります。そのキッカケは、当時、飛鳥資料館の「万葉の衣食住展」のなかで古代食を復元するということなので、牛乳を無償提供したことに遡ります。この頃は牛乳がだぶついており、チーズ作りでも始めようと思っていたところ、蘇の復元をみ「これだ!やって見よう」ということになりました。

さっそく、ねり飴用の手打ち釜を特注し、押し寿司用の木箱や冷蔵庫をそろえ、製造に取り掛かりました。一言で「牛乳を煮詰めて冷し固めたもの」と言っても、良いものを作るとなると大変だったようです。釜で攪拌しながら強すぎず、弱すぎず、じっくり加熱し、煮詰まっていく牛乳の色だけが頼りとなります。経験だけがものをいう火加減が必要となります。正に手作りの職人の領域です。ベテランとなった今でも、時には失敗することがあるそうです。