掲示板の歴史 その二
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NO.51  「闇」
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2003/11/07(Fri) 16:58:59
□URL/ http://members13.tsukaeru.net/qookaku/intro/diary0311.html

こんばんは、環さん。
PCは大丈夫です。ご心配かけます。

>闇というのは人間が現代に失われたもの、太古や原始という事ですか?

そういうニュアンスもなきにしもあらずなのですが、様々な要素が含まれているので一口に説明するのが難しいです。
それを日本密教に限定した上で、敢えていうならば、

@感覚的な要素 森や山そのものの「感覚」
A概念的な要素 山岳信仰やその源、また神とされ祀られるモノなど
B物理的な要素 修行地が山岳地帯に集中しているという事実(修験道を含む)
C歴史的な要素 修行地の多くが何故か水銀(丹)の鉱床であることなど

というようなことがいえるような気がします。
どうも重複している要素が多いため違和感があるのですが、まあ現時点ではご容赦ください。

実は環さんに訊かれるまで、私の中のこの「闇」という概念をはっきりと認識したり、整理してみたりしたことがなかったので、どうお応えしたものか少し考えさせられました。これは善い機会なので上記の如くブレインストーミングしてみたのですが、新しい発見があったり、間違いが発覚したら後で訂正します。なにぶん、私個人の感覚的なものが含まれてますので・・・

密教に関係ない場合は、上の@「感覚的な要素」、つまり森の木々と木漏れ日とが織り成す絶妙な暗がりと、それが醸す美しさやある種の不気味さ、あらゆる生き物の生と死が渾然一体となった独特な土の匂い、閑けさの中で寂かに響く鳥の啼き声、などといった、森を森たらしめるエッセンスをすべてひっくるめて、私はなんとなく「闇」と呼んでいます。
茶道における「ワビ」や「サビ」のような用語だといえばお分かりになるのではないかと思います。
自家製ですけどね(苦笑)

>密教の仏像と仏教の仏像の違いはどんな所ですか?

このご質問ですが、まず、密教も仏教(の流れ)なので、くどいようですが「密教とそれ以外の仏教」という言い方の方が好ましいと思います(^^)

密教の仏像の方が色彩とバリエーションに富んでます。
密教が現れるまでは如来(仏)、菩薩、若干の天部といった割と地味な顔ぶれだったものが、密教に至るとそれに加えて真言(呪文)の力を神格化した諸々の明王(vidya-raja)と呼ばれる尊格が現れ、また天部諸尊の数が爆発的に増加します。
表情・表現が豊かで、「怒り」もしくは「喜び」を体現する尊像が多いのが特徴的です。密教では「転識得智」といって、意識の面々を高域の精神状態に転化することによって悟るという解釈があるのですが、これを「小我」から「大我」に転ずるという言いあらわし方もするようです。「大我」における欲望や怒りは證悟の慈悲と智慧とに基くものなので、通常のように煩悩として否定されることがありません。

もともと仏教というのは宗教的芸術表現や偶像の製造を勧めない教えだったのですが、ゴータマの死後はその骨(仏舎利)が崇められ、時代が下るに連れて梯子、傘、法輪や足の裏(仏足跡と呼ばれるものです)などが造られるようになり、やがて紀元後一世紀ごろから仏像や仏画が登場します。
始めは独尊として造られていた仏像も、時とともに三尊像のセットで造られることが多くなり、ゴータマを中心に慈悲の象徴である観音菩薩が左、ゴータマを護る力の象徴である金剛手(ヴァジュラ・パーニ)が右、などといった形式が多かったようです。

密教ではこの形式が「慈悲」「證悟」「智慧」の象徴として発展し、やがて『大日経』において胎蔵曼荼羅が形成されます。
また、曼荼羅は「新たな経典の登場や衆生のニーズに合わせて増えすぎた尊格を、その性格のカテゴリーに合わせて整理整頓したものである」と考える向きもあり、私もそうなのではないかと思うのですが、そこに唯識などの思想でもって教理的な解釈(転識得智など)を付加したりするというのも密教図像のユニークな面なのではないでしょうか。

>梵字や、曼陀羅、法具、教えは興味ありますね。

カッコいいですからね(^^)

>牛蘇とは何ですか?!(乳製品かな(汗))

乳製品です(^^)
「蘇」とは牛乳や羊乳を煮詰めて作る食べ物で、五味、つまり乳、酪、蘇(生蘇)、熟蘇、醍醐の一つです。
ただし、「蘇」にはチーズ系の食物とバターのような状態の二通りの定義があり、密教では後者がよく護摩修法に用いられ、虚空蔵求問持法においても後者が使用されます。バター系は「蘇油」ともいってこれにも「生蘇」と「熟蘇」の二種があり、食用・薬用に加え、体に塗布することもあるそうです。チーズ系は僧の摂る七日薬のひとつで、修行者などもよく食したといいます。
ただし、日本においては、双方ともその製法自体がきちんと伝わっていなかった可能性があるようで、虚空蔵求聞持法において蘇油の腐食が問題になるのはそのためだといいます。

>呪文は叶えられるものでしょうか?人を呪い殺す様な物騒なのは困りますね(汗)自分の私利私欲の為ではないものが良いと思います。

う〜ん、どうなんでしょうね。
いろいろ事例は聞かされるのですが、呪が叶えられるかどうかは究極的には証明不可能としかいいようがありません。
ただし、呪なくして日本の歴史は語れないというのも事実です。
呪い研究家の小松和彦氏がその著作『日本の呪い』でも述べてますが、まず「呪い心」があることから呪いが始まるのであって、呪いの方法の方は大方単なるパフォーマンスに過ぎないというような主張をしてます。密教でいえばこれは意密のみで不完全なのですが、これには実は私も共感するところがあります。

余談ですが、私はこのところホラーに傾倒するようになってきているのですが、それは恐らく、私がそういった人の心の暗闇に魅せられ、そういった心に何かを期待しているからなのかも知れません(^^;)
だから、個人的にいわせてもらうと、私は人の心とか念とかの可能性というのは否定しませんし、そういうものがあった方が面白いと考えてます。

この「呪い心」というのは要するに「願い、得ようとする心」の延長線上にあるものなので、当然、これはそのまま関連する他の心作用に置き換えることが出来ます。
日本密教では、修法を異なった心作用・目的に合わせて息災(そくさい)、増益(ぞうやく)、降伏(ごうぶく)、敬愛(きょうあい)の四種に分け、システム化しています。

>密教は範囲が広いのですね。勉強しがいがあります。釈迦の教えにも興味あります。

そう思っていただけると嬉しいです。
ぜひ、またご質問ください。