掲示板の歴史 その二
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NO.108  「聖徳太子論争」(日経新聞)
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/01/13(Tue) 16:16:26
□URL/ http://members13.tsukaeru.net/qookaku/


「和」といえば聖徳太子を思い浮かべる人は多いと思います。
ところで、この聖徳太子が実は実在しなかったという学説があります。
この話は割と有名なんじゃないかと思うのですが、そのことで今論争が巻き起こっているらしいです。
私のような不信心者からすると、これは非常に興味深い(苦笑)

日経新聞(二〇〇四年一月十日)に面白い記事を見つけたのでご紹介します。
見出し群
 「聖徳太子いた!いない!」
 「日本書紀で創作か」
 「聖人化の経緯検証」
 「架空巡り論争白熱」
「聖徳太子は実在しなかった」という学説をめぐって学界が揺れている。かつて一万円札の肖像にまでなった偉人の存在を否定する大胆な説だけに、古代史の専門家の評価も割れている。このほど「架空説」を支持する複数の研究者の論文をまとめた本が刊行され、論争はさらに過熱する勢いを見せている。

虚構つく論文集

聖徳太子(五七四〜六二二)といえば、「和を以て貴しと為す」で知られる十七条憲法を作った人で、一度に十人の言葉を聞き分けることができたという伝説も残っている。最古の木造建築である法隆寺も建てた。本名は厩戸王。これらの業績は七二〇年に成立した勅撰の歴史書「日本書紀」に記されており、日本人は長年、聖徳太子は偉大な政治家・思想家であると教えられてきた。
こうした歴史的常識に反旗を翻し、「聖徳太子架空説」を唱えた研究者がいる。大山誠一・中部大教授(古代史)は、「<聖徳太子>の誕生」(吉川弘文館、一九九九年)などの著書で、厩戸王の存在は認めながらも、「聖人」としての聖徳太子は日本書紀を編纂するときに創作されたと主張する。聖徳太子の実在を示すとされてきた推古朝時代(五九三〜六二八)の史料が、使用語彙などから、後の時代に書かれたものであることが明らかになったためという。
大山説を指示する研究者も出てきた。大山氏が編者となり、昨年十一月に刊行された「聖徳太子の真実」(平凡社)では、多分野の専門家が大山説を裏付けている。そこでは、聖徳太子の実在にかかわると考えられる全史料を対象に、その信憑性を探っている。
瀬間正之・上智大教授(上代文学)は、推古朝時代に書かれたとされる「推古朝遺文」を国語国文学の立場から再検討。その一つである法隆寺金堂薬師仏の光背銘文には、太子が薬師仏建立に携わった経緯が記されている。瀬間教授は、銘文中に出てくる「仕奉(つかへまつる)」に着目。当時の史料でこの言葉が登場するのは七世紀末からであり、銘文はそれ以降の制作と見なすべきであろうとする。
日本書紀と聖徳太子の関係を探った章では、吉田和彦・名古屋市立大教授(古代史・仏教史)が、書紀編纂に加わった僧・道慈の役割について論じている。書紀で聖徳太子が亡くなる場面は、唐の文献にある僧・玄奘の死の場面に似ていて、かなり文学的な表現になっている。それは、留学先の唐でも学識を評価されていた道慈が「机上で創作」したためと見る。

蘇我王権を消す

さらに注目されるのは用明・祟峻・推古の三王朝を否定し、蘇我馬子の王権があったとする大山氏の論文。推古以前の王家の人々の墓は河内(大阪)にあるのに対し、これらの人物が活躍していた飛鳥を中心とする大和(奈良)には、蘇我氏四代(稲目、馬子、蝦夷、入鹿)が葬られている。蘇我稲目を埋葬した巨大な古墳などを身近に見ていた飛鳥の人々にとって、蘇我氏こそが王だったと主張する。
記紀の編纂が進むうちに、蘇我王権は万世一系に矛盾するから歴史上から消されてゆく。しかし、飛鳥を都として整備し仏教文化を築いた馬子の存在感は残る。それを埋めるために用意されたのが聖徳太子だった、という大胆きわまりない説だ。
大山説に対して、和田萃・京都教育大教授(古代史)は「日本書紀の編纂段階で聖徳太子が理想化されたのは、多くの人が認めている。厩戸王と(脚色が加わった)聖徳太子を分けて考えるべきだとの指摘は重要だと思う」と評価する。もっとも、それが「聖徳太子架空説」や「蘇我王権説」につながるわけではない、ともつけ加える。
中学校の教科書では、死後に名付けられた「聖徳太子」ではなく、「厩戸皇子(聖徳太子)」と表記するケースも登場している。日本書籍の二〇〇三年度版教科書を執筆した吉村武彦・明治大教授(古代史)は、「皇子を表記するに当たっては生存中の名前を使うのが一般的。『聖徳太子の時代』という表現にも違和感があり、『蘇我馬子と厩戸皇子が政治をおこなう』と表記した』と話す。
大山説に通じるようにも見えるが、「日本書紀編纂時に聖徳太子が創作されたというのは無理があるのではないか」と「架空説」には否定的だ。

「論証は不十分」

直木幸次郎・大阪市大名誉教授(古代史)は、「十七条憲法には推古朝にはない『国司』の文字があるなど疑問がある。聖徳太子伝の批判的研究は必要」としながらも、「日本書紀が成立する十四年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露盤銘を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分」と指摘する。
発掘調査で新しい史料でも出てこない限り、結論は出そうもない。しかし、こうした論争が、聖徳太子の「実像」と信仰対象としての「幻像」を分けようとする姿勢を生み、研究の深化につながるのは間違いない。(文化部 中野稔)
不比等ら"黒幕" 〜大山誠一氏の学説
一九九九年に刊行され学界に波紋を投げかけた大山誠一・中部大教授の学説は、次のようなもの。
七一二年完成の「古事記」には聖徳太子の記述がほとんどない。従って七二〇年完成の「日本書紀」によって聖徳太子像は生み出された。当時実権を握っていた藤原不比等や長屋王らが、唐から戻った僧の道慈に命じ、過去の皇族の中から厩王をモデルにして、「聖人」としての聖徳太子像を創作したとの主張だ。
藤原不比等らが聖徳太子像を創作した理由には、律令国家の完成には、中国思想を踏まえた聖天子像の存在が必要だったことなどを挙げている。

以上、引用でした。
この記事は、学問対象(「実像」)と信仰対象(「幻像」)の本質的違いを示してくれているのと同時に、今までお話してきた「和」と「大和」とを繋ぐ材料の一つだった厩戸皇子(聖徳太子)という存在が、実に不安定な要素になってしまうことを明らかにしてくれます。
これは、とても有意義な記事なので参考にしてください。