掲示板の歴史 その一
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NO.38  仏教における「信」
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2003/08/12(Tue) 13:07:58


>宗教的啓示や奇蹟は、物理的に証明できるものなのですか?証明できないからこそ奇蹟なのでしょ。それを承知の上で、証明だ、何だとつべこべ言わずに信じる、観じる、それが信仰でしょ。科学ではない。これは宗教のイロハだと思うんですが、あなたはそれをご理解ないようですね。失礼ですが、進む道を間違えていますね。まだお若いのですから、理系へ方向転換をなさることをお勧めしますよ。

上のみのるさんの投稿を念頭に置いて『永遠の世界観 華厳経』(筑摩書房刊、玉城康四郎著)を再読していたら、ちょうどよい記事を見つけました。昨今ではこのような学者による見識はいたるところでよく耳にするので、仏教をそこそこご存知の方には常識的知識かと思いますが、参考までに引用いたします。

(中略)
われわれは、ここに信ずるということに関して、種々の問題をかかえている。
第一に、信ずるとは一体どういう意味であろうか。
第二に、信ずることが人生行路の第一歩であるとは、なにを表わしているのであろうか。
第三に、信ずることが、同時に人生行路の終局まで貫かれているとは、いかなる事態を指しているのであろうか。
われわれは、これらの問題に関して、つぎつぎにその意味を解きほぐしていこう。
第一に、信ずるということが、むずかしいばかりでなく、それに先立って、信ずるという意味が同様にむずかしい。他の宗教にも信ずるということは強調されている。キリスト教には、blief, faith, Glaube などがいわれている。ヒンズー教では、bhakti が強調されている。仏教の信は、これらの宗教の信と類似しているところがある。しかしまた一方では、仏教特有の信が浮かび上ってくる。
まず大切なことは、信という観念をいかに分析してみても、信の意味はでてこない。そうではなく、信は、実は重要な人生経験であり、この経験には、信の種々の表情が含まれている。その種々の表情を信という一語にまとめたのであるから、われわれは信の観念を勝手に分析するのではなく、人生経験の表情にもどして、これを味わってみなければならない。
原始経典には、を表わすいろいろの語が用いられている。たとえば、サッダー(saddha)、パサーダ(pasada)、アディムッティ(adhimutti)などである。大乗仏教のサンスクリットでいえば、シュラッダー(sraddha)、プラサーダ(prasada)、アディムクティ(adhimukti)である。
第一のサッダー(シュラッダー)は、信頼の意味を持っている。
「老いるときに、戒はよく、はよき安住処であり、智慧は人の宝であり、功徳は盗みによっても奪われない。」(相応部経典、一、六、五一)
信仰と清浄な心によって食を施す人は、この世においても、あの世においても、食を得るであろう。」(相応部経典、二、三、二三)
「わたしは、信仰によって在家者から出家者となった。正念と智慧は、わたしのなかで目覚めており、心は、いとも静寂である。」(相応部経典、四、三、二二〜一〇)
右の文に挙げられているサッダー(信)は、一般的な意味に用いられる宗教的な信仰であり、宗教的な世界に対して信頼の心の確立している状態を指しているのであろう。 第二のパサーダ(プラサーダ)も、信頼の意味に用いられている。
「この世に人身を得て、親切で、貪ぼりをはなれ、仏を信じ、法と僧とに深く帰依する。」(相応部経典、一、五、四九〜三、四)
右の文の信にはパサーダが使用されているが、これもまた、仏を信頼する意味であろう。われわれの人間関係においても、信頼は突然に生まれてくるものではなく、交わりをつづけていくうちに、相手が信頼に価すればおのずからその感情が現われてくるものである。仏は目覚めたひとであり、すぐれた人物であり、これに接する人々が信頼の情を寄せたことは、想像にかたくない。
ところでパサーダ(プラサーダ)は、もともと、純浄、よろこび、満足などの意味を持っており、原始経典のなかでもそのような意味に用いられている。すなわち、仏を信じ、法を信ずれば、心はおのずから清められ、よろこびの気持が湧いてきて、満足するようになる。昔から、信とは、すなわち澄浄の義なり、といわれているのは、この意味を指したものである。われわれの通常の心はにごっており、垢がついているが、しかし信心は、あたかも清水が底の底まで澄みとおっているように、清浄で純粋である。
大乗経典の「大無量寿経」のなかには、サンスクリットのプラサーダ(信)をつぎのように用いている。
「一切衆生が、無量光(限りなき光の仏)の名号をきいて一念を動かし、信心歓喜を伴なえる願望をもって菩提心をおこすものは、ことごとく、究極の悟りから退かない位に安住する。」
右の文は、無量寿経のなかのいわゆる願成就の文である。プラサーダを、シナ訳でも信心歓喜と翻訳している。この信心は、もとより信頼の意味であるけれども、たんに信頼という態度のみにとどまらず、信頼の結果は、究極の悟りから退かない位につながっており、したがってそれは、究極のさとりそのものにも関係している。それゆえに、プラサーダは、信頼を意味していると同時、その結果としてのよろこびや満足をも包含している。信心がよろこびや満足を持っているとすれば、それが清浄であることは自然であろう。
第三のアディムッティ(アディムクティ)は、信解と訳されているものである。この言葉には、信じ理解するという意味が含まれている。たんなる盲信ではなくて、むしろその反対の智的信仰あるいは智慧の信心といわれるものであろう。非常に古い経典であるスッタニパータのなかに、パサーダとアディムッティとが平行して用いられてある。その例を見てみよう。これは、ピンギヤという人が釈尊に対していったことばである。
「わたしは、聖者の言葉を聞いてますます信ずる(パサーダ)ようになりました。目覚めたひとは、心のおおいが開かれ、心は習熟し、しかも叡智をもっておられます。・・・・・・どこにも譬うべきものがなく、打ちまかされることもなく、動かされることもない境地に、わたしはたしかにおもむくことでしょう。これについて、わたしには疑いはありません。このように、わたしの心が信じ了解し(アディムッティ)ていることをご承認ください。」(「スッタニパータ」一一四七、一一四九)
ここには、パサーダとアディムッティのニュアンスがよく現れている。ピンギヤは釈尊に接しているうちに、釈尊の心は開かれ、習熟し、叡智の光をもっていることが次第にわかり、釈尊を信頼するようになり、自分の心も清浄になってきた。それがパサーダであろう。そしてピンギヤは、自分もまた釈尊と同じように絶対不動の境地に必ず到達するとおもう。そう信じ了解していることがアディムッティである。
アディムッティはこのように智的な信仰を意味している。大乗仏教では、仏性(如来蔵)を説明して、仏性とは、信解(アディムクティ)と禅定と智慧と慈悲の混然一体になっているものであると考えられている。ここでもアディムクティは、智慧につながっている。すなわち心のなかから、とびらが開かれ、おのずからうなずくという意味の智慧の信心を指している。
以上は、について、サッダー(シュラッダー)、パサーダ(プラサーダ)、アディムッティ(アディムクティ)のそれぞれのニュアンスをふりかえったのであるが、なおこのほかに、昔からつぎのような解釈も行なわれている。それは、すべての経典の最初に「如是我聞」(このようにわたしはうけたまわった)ということばがあって、経典の内容が説かれるのであるが、その如是がすなわちをあらわす、というのである。如是(このように)は、うなずく心であり、うけとる心であり、それがすなわち信である。大乗仏教の先覚者ナーガールジュナ(龍樹)の有名なことばに、
「仏法の大海は、をもって能入となし、智をもって態度となす。」
というのがある。われわれは、信によって仏法の大海に入り、智によってその大海をわたることができる、というのである。
うなずく心、うけとる心、すなわち信が、仏法の第一歩であるということができる。ナーガールジュナは、また信をに譬えている。この譬えは、つぎに述べる華厳経のなかにも出ているのであるが、ナーガールジュナによれば、われわれが折角宝の山に入っても、手がなければ宝をとってくることができない、それと同じように、仏法の山のなかにはいっても、信という手がなければ、その真理をうけとってくることが出来ない、というのである。ここでも信は、うなずく心、うけとる心であり、仏法の第一歩であるということができる。
以上のように見てくると、信にはいろいろなニュアンスがあり、そのときどきに応じてちがったことばが用いられているのであろうが、根本には信という共通の意味が流れている。したがって実際には、信は、信頼・清浄・喜悦・満足・理解というようなさまざまな意味を、混然としてそなえているというのが実情であろう。
実存哲学者カール・ヤスパースに、「哲学的信仰」という著書がある。その信仰というのは、自己自身を明らかにすることであり、自己確信によって、間断なくより明るく、より意識的にすることである、といっているが、この点からいえば、仏教のうなずく心に似ているといえよう。また、初期キリスト教の護教家にテルトリアヌスというひとがあり、「不合理なるゆえにわれ信ず」(credo quia absurdum est)ということばが伝えられている合理的なものは信ずる必要がない。不合理であり理解し得ないからこそ信ずる、神は、われわれのまったく理解し得ないものであるから、信ずる、という意味であろう。これは、キリスト教の信仰をすべて代表しているものではないが、このような意味の信仰からは、仏教の信は明瞭に区別されるのである。
このように信は、うなずき、うけとる心であり、仏法の第一歩である。そして信ずる心は、次第に澄みとおり、清らかとなり、よろこび、満足し、ついには心の扉が内から開かれるところの智慧につながっていくのである。宝の山に入って、存分に宝をにいれてくるように、信の功徳は、なにものにも譬えようのないほど大きい。(後略)
(第三章「菩薩の人生行路 A第一歩」/九〇〜九七頁より抜粋)

玉城氏はこれに続けて、上記のような信を華厳経がどのように表わしているかを書かれています。

また、下記は『仏教辞典』(中村元編、岩波書店)より辞書引用です。
これを見ても分かるように、仏教には他の宗教と類似した「信仰」の在り方と、そうではない、きわめて知的なニュアンスでの「信」の二面が共存していることが窺い知れます。


@信楽 しんぎょう
教えを聞いて信じて喜ぶこと。ひたすら信じて疑わず、おのずから心に歓喜が生じることをいう。また、「信」は信じること、「楽」は教えに従って修行し、さとりを願い求めることの意に解釈されることもある(「楽」には願の意味がある)。浄土教では、弥陀の本願を深く信じて疑わず、救済されんことを願うことをいい、「至心」「欲生(我国)」(ともに無量寿経上に見える[→第十八願])と合わせて三信もしくは三心とよぶ。

A信解 しんげ[adhimukti]
原語は、強い意向、志向、信頼、確信などの意で、《志楽(しぎょう)》《欲性(よくしょう)》《信》《信受》《勝解(新訳)》など多くの訳語が当てられている。信解もその訳語の一つで、(教を)確信すると同時に了解するという意に解される。この語は法華経に多用され、特に「分別功徳品」の「一念信解」の語は、中国および日本天台とその流れを汲む日蓮宗においては重要な意義を賦与されて理解されている。

B信仰 しんこう[sraddha/saddha]
古くは「しんごう」と読んだ。無垢な心で神仏を信頼し崇拝すること。疑惑・不信の反対。宗教特異の用語。仏教信者にとって仏法僧の三宝帰依が必須とされ強調される。ひとえに三宝への信頼があればこそ帰依が生ずる。そして帰依の対象は今生とか特定の時や場所に制約されていず、過去から永遠の未来に向け、そしていかなる状況下にあっても信頼できるものであって、その故に信仰が確立されている。
仏教では信仰より「信」「信心」という表現のほうが伝統的である。仏教の説く「信」の原語は sraddha のほか prasada, adhimukti が代表的である。 sraddha はインドで仏教以前から用いられた単語で、仏僧は「信」と漢訳した。冷静で客観的な信頼を意味する。解脱に必要な五根や七力の最初に数えられ、また心所の一つとして大善地法に配当されている。「信」は疑惑を除き悟りへの基盤であると考える。 prasada は「浄信」「澄浄」「信心」などと漢訳する。心が清まり澄むことで、そこには「信」が看取される。また、 adhimukti は「信解」「勝解」「信楽(しんぎょう)」などと漢訳される。智慧により理解が進んで確立される信頼で、そこにはもはや疑惑がない。
浄土真宗では解信(げしん)と仰信(ごうしん)を説く。「解信」は知的に仏や祖師の教えを理解して得る信で、「仰信」は自分の知識や見解を加えずに無心に得るところの信。ヒンドゥー教では「信愛」(bhakti)を神に至る道の最高と定め、神への熱烈な崇敬からほとばしる思慕の情感を説くが、それに対して仏教の説く「信」はずっと知的で冷静である。

C信心 しんじん
仏の教えを信じて疑わない心。親鸞は、阿弥陀如来の誓いを聞いて疑う心のないこととしている。そしてこの信心の定まる時往生もまた定まり、成仏すると説く。信心は如来から与えられるもので、信心が得られるのは、わが身は限りない罪悪深重の凡夫であると深く思い、こうした罪悪のかたまりであるから、自己を頼みとすることはできず、自己放棄=他力を頼む以外にないと深く信ずる心を持つことであるとする。