調達(デーヴァダッタ)にも亦、衆あり。常に過去の三仏を供養し、ただ釈迦文(シャーキャ・ムニ)仏のみ供養せざるなり。と述べており、また七世紀にインドを訪れた玄奘は『大唐西域記/巻十』「羯羅拏蘇伐刺那国(カルナ・スヴァルナ、現ビハール州南部州境地域)の条」に
別に三伽藍あり、乳酪を食せず、提婆達多の遺訓に遵うなり。と記していることから、少なくとも七世紀頃までは続いていたことが知られる。
デーヴァダッタの所伝 | ||
テーマ | 南伝の記述 | 北伝の記述 |
素性について | シャーキャ族のデーヴァダハ城のスッパブッダの子であり、ブッダの太子時代の妃バッダカッチャナー(Bhaddakaccanaa)の弟 [*ブッダの太子時代の妃の名は北伝ではヤショーダラー(Yashodharaa、パーリ語Yasodharaa)と記されている。漢訳でも一般に耶輸陀羅と書かれ、バッダカッチャナーに対応するサンスクリット語名バドラカートヤーヤナー(Bhadrakaatyaayanaa)の名はまったく見られない。パーリ語のある註釈文献によるとこれらは同一人物を示す別名だとあるが、これもまたかなり後代の所伝] | ブッダの従弟で阿難(アーナンダ)の兄。父親の名は甘露飯王、斛飯王、白飯王などとあって所伝が一致していない。ブッダとの年齢差も出家した時期も不明。 |
叛逆について | 律『チュッラ・ヴァッガ/第七』「サンガ・ベーダ」 [* 『チュッラ・ヴァッガ』はパーリ語所伝の律の小品で、主として教団内の日常生活に関係のある規定を集めた部分、「サンガ・ベーダ」は「教団の不和を引き起こす」を意味し、デーヴァダッタの叛逆をテーマとしている。デーヴァダッタの叛逆についての最古の所伝であり、歴史的事実にもっとも近いのではないかと思われる。] 特徴としては次のようなことが挙げられる。
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『根本説一切有部毘奈耶破僧事』(略称『破僧事』) パーリ語所伝に比べると、大綱においては一致しているが、相当に説話構成が進んでいる。 以下はその特徴。
この他にも『五分律』、『十分律』、『賢愚経/第九』、『出曜経/第二五』などにも部分的に異なるが、大同小異の内容が説かれている。 |
『ダンマパダ・アッタカター』(推定西暦五世紀頃成立) 『観無量寿経』に語られる、いわゆる「王舎城の悲劇」が記されているが、これは後代に北伝から移植された所伝である。 [* 王舎城の悲劇: アジャータ・シャトルがデーヴァダッタの神通力に魅惑されて友となり、デーヴァダッタにそそのかされて父王を殺したとする逸話。] |
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「ジャータカ」における伝説 『チュッラ・ヴァッガ』に起と結とを付加した形式。 つまり、彼がアジャータ・シャトル王子を友にしようとした理由と方法、ブッダの教団を出奔してのちの人生について語られる。当然、かなり後世の所伝に基く大乗仏教的脚色がなされている。 理由とその方法: ブッダがコーサンビーに逗留していたとき、他の弟子たちが人々から尊敬を受けているのに自分が得られなかったので、アジャータ・シャトル王子を友人にしようとし、神通力によってコーサンビーから王舎城へ飛び、四蛇身・四象足・一頭の怪物に化けて王子を丸め込んだ。 顛末: 九ヶ月間病気をわずらった後、シュラーヴァスティーにブッダを訪ねようとしたが、ジェータ太子の遊園地(祗園)に足を踏み入れたとたんに大地が裂け、生きながら無間地獄に落ちた。しかし、落ちる瞬間にブッダに帰依したため、その功徳によって独覚になるという予言を受けた。 |
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五事について | 『チュッラ・ヴァッガ/第七』「サンガ・ベーダ」
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『破僧事』
『大唐西域記/巻十』によると、「乳酪を食せず」はデーヴァダッタの遺訓ということである。 |