仏教用語辞典


大日如来 [だいにちにょらい]
サンスクリット語「マハー・ヴァイローチャナ(MahAvairocana/偉大な光照者)」の訳語で、『大日経』、『金剛頂経』の経主の名。
起源は古代イランの光明神アフラ・マズダーに深く関わっており、初期の仏教においては転輪聖王や阿修羅族の王として登場する。
同尊格はそもそも『華厳経』ではただ音写されて毘廬遮那如来と表記されていたが、『大日経』「入曼荼羅具縁真言品」「悉地出現品」などに「大日如来」とある。
善無畏三蔵と一行禅師の師弟によって案出された名称で、太陽のイメージと無関係でないことからこのように訳出されたと考えられる。
東京堂出版『インド神話伝説辞典』によると、「ヴィローチャナ(Virocana)」とは、ひとつには太陽神スーリヤの別名であり、もう一つにはプラフラーダの子でダーナヴァの一人、善良なる悪魔バリの父であるという。

ところで、『愛と平和の象徴・弥勒経』(渡辺照宏、筑摩書房、昭和四十一年)にはまた、ヴァイローシャナをめぐって興味深い記事がある。
ゴータマ・シッダールタのブッダとしての伝記資料として重要なサンスクリット文『マハーヴァストゥ(一・五九)』、また同文の漢訳『仏本行集経(巻一/大正蔵三、六五六中)』によると、マイトレーヤ(つまり弥勒菩薩)はその前世において「シッダールタが菩提心をおこすより四十四劫を遡ったスプラバーサ(善光)という如来がいたころ、そのもとでヴァイローチャナという転輪聖王として将来に仏道成就を志し、最初に善根をうえた」とあるという。(一六二頁)
このことについて同書の著者は「マイトレーヤが初発心の時にこの法身仏と同じ名であったことは注目に値する」とだけ書いているが、これは弥勒菩薩と大日如来とが起源的に深い関わりを持っていることを示しているのかも知れない。
弥勒には、その起源がミスラにあるらしいという説がある。一方、ヴァイローシャナの起源がアフラ・マズダーにあるという説も、またよく知られた話である。
古代イランの民族宗教においてミスラ神はもともとアフラ・マズダーと強く結びついていた。
その関係は、一神教を宣揚したザラスシュトラ(ゾロアスター)によって一度は断たれたのだが、彼の死後、後継者たちによって再び下位の神霊として採り入れられて、やがてはアフラ・マズダーと同一の神として習合し、冥府のチンワト橋において死者の霊を裁く神となったという。

以上の
「ヴァイローシャナ=アフラ・マズダー=ミスラ=弥勒」
という図式から、大日如来と弥勒菩薩とが起源を同じくしているであろうことが伺い知れる。
もしかすると『マハー・ヴァストゥ』の記述は、この事実に何らかの形で依拠したものだったのかも知れない。
ちなみに、『賢愚経』中の弥勒菩薩に関する同種の前世譚における転輪聖王名はダルマルチ、『ディヴヤ・アヴァダーナ』ではダナサンマタという。

提婆達多 [だいばだった]
デーヴァダッタの音写。
ブッダの肉親であり弟子であったが、やがて価値観の相違と野心から、教団に叛逆した。
出奔後も独自の教団を運営していたが、これは彼の死後も永く存続した。
五世紀初頭にインドを旅した法顕は『仏国記』「拘薩羅国(コーサラ、現ウッタル・プラデーシ州)の条」に
調達(デーヴァダッタ)にも亦、衆あり。常に過去の三仏を供養し、ただ釈迦文(シャーキャ・ムニ)仏のみ供養せざるなり。
と述べており、また七世紀にインドを訪れた玄奘は『大唐西域記/巻十』「羯羅拏蘇伐刺那国(カルナ・スヴァルナ、現ビハール州南部州境地域)の条」に
別に三伽藍あり、乳酪を食せず、提婆達多の遺訓に遵うなり。
と記していることから、少なくとも七世紀頃までは続いていたことが知られる。
両者とも、「舎衛城近郊にはデーヴァダッタが地獄へ墜落していった大坑がある」と記している。

デーヴァダッタに関する記述は南伝と北伝とで違っている。
以下はその比較対照表。

デーヴァダッタの所伝
テーマ南伝の記述北伝の記述
素性について シャーキャ族のデーヴァダハ城のスッパブッダの子であり、ブッダの太子時代の妃バッダカッチャナー(Bhaddakaccanaa)の弟 [*ブッダの太子時代の妃の名は北伝ではヤショーダラー(Yashodharaa、パーリ語Yasodharaa)と記されている。漢訳でも一般に耶輸陀羅と書かれ、バッダカッチャナーに対応するサンスクリット語名バドラカートヤーヤナー(Bhadrakaatyaayanaa)の名はまったく見られない。パーリ語のある註釈文献によるとこれらは同一人物を示す別名だとあるが、これもまたかなり後代の所伝] ブッダの従弟で阿難(アーナンダ)の兄。父親の名は甘露飯王、斛飯王、白飯王などとあって所伝が一致していない。ブッダとの年齢差も出家した時期も不明。
叛逆について 律『チュッラ・ヴァッガ/第七』「サンガ・ベーダ」

[* 『チュッラ・ヴァッガ』はパーリ語所伝の律の小品で、主として教団内の日常生活に関係のある規定を集めた部分、「サンガ・ベーダ」は「教団の不和を引き起こす」を意味し、デーヴァダッタの叛逆をテーマとしている。デーヴァダッタの叛逆についての最古の所伝であり、歴史的事実にもっとも近いのではないかと思われる。]

特徴としては次のようなことが挙げられる。
  • デーヴァダッタがどのようにしてアジャータ・シャトル王子の供養・庇護を受けるようになったかが記されていない。
  • 提婆達多がアジャータ・シャトル王子に父王ビンビサーラ殺害をそそのかす部分は見られるが、父王はこの陰謀を察知して王子に王権を譲り渡している。
    [* ビンビサーラ王が王子に殺害されたとする逸話は、『ディーガ・二カーヤ/二』「沙門果経」やセイロンの史書『マハーヴィンサ』(大史)の記事などから見ても南伝の仏教教団にも知られているはずだが、『チュッラ・ヴァッガ』では知られていない。]
  • デーヴァダッタの教団出奔後の人生についてはまったく触れられていない。
  • ブッダによって六年間も唾液を食った者、「ケーラーパカ」と呼んだ。
『根本説一切有部毘奈耶破僧事』(略称『破僧事』)

パーリ語所伝に比べると、大綱においては一致しているが、相当に説話構成が進んでいる。
以下はその特徴。
  • 王舎城のシュレーニカ窟で十力迦葉(ダシャバラ・カーシャパ)に師事して神通力を得たデーヴァダッタは、アジャータ・シャトルが将来のマガダ国王となることを観じ、神通力で王子に接近した。
  • デーヴァダッタは童子の姿となって王子の膝の上に抱かれ、王子の唾を飲んだ。
    [* デーヴァダッタが王子の唾を飲んだという所伝は、『十誦律/巻三六』、『出曜経/巻十四』、『大毘婆沙論/巻八十五』、『大智度論/巻二十六』などに見え、北伝において広く流布していたことが知れる。これはパーリ語所伝においてブッダがデーヴァダッタを「ケーラーパカ(唾液を食った者)」と侮辱したというのと同系統の伝承である。]
  • デーヴァダッタの三無間業 [@石を投げてブッダの身体から血を流させたこと A教団の和合を破壊したこと B蓮華色比丘尼を殺したこと] が挙げられ、その報いとして彼が無間地獄に落ちることが説かれる。
  • デーヴァダッタの三悪事 [@悪欲を好みそれを遂行する A悪友と交わる B慢心して精進しない] が挙げられ、これらのために彼が一カルパの間地獄に落ちること、そして救済の手段がないことがブッダによって予言される。
  • 最後には十本の爪に毒を塗ってブッダを殺害しようと試みたが、自分の身体に毒がまわってしまい、無間地獄の炎に包まれて苦しみながら「世尊に衷心から帰依する」と叫びながら地獄に落ちる。


この他にも『五分律』、『十分律』、『賢愚経/第九』、『出曜経/第二五』などにも部分的に異なるが、大同小異の内容が説かれている。
『ダンマパダ・アッタカター』(推定西暦五世紀頃成立)

『観無量寿経』に語られる、いわゆる「王舎城の悲劇」が記されているが、これは後代に北伝から移植された所伝である。
[* 王舎城の悲劇: アジャータ・シャトルがデーヴァダッタの神通力に魅惑されて友となり、デーヴァダッタにそそのかされて父王を殺したとする逸話。]
「ジャータカ」における伝説

『チュッラ・ヴァッガ』に起と結とを付加した形式。 つまり、彼がアジャータ・シャトル王子を友にしようとした理由と方法、ブッダの教団を出奔してのちの人生について語られる。当然、かなり後世の所伝に基く大乗仏教的脚色がなされている。

理由とその方法:
ブッダがコーサンビーに逗留していたとき、他の弟子たちが人々から尊敬を受けているのに自分が得られなかったので、アジャータ・シャトル王子を友人にしようとし、神通力によってコーサンビーから王舎城へ飛び、四蛇身・四象足・一頭の怪物に化けて王子を丸め込んだ。

顛末:
九ヶ月間病気をわずらった後、シュラーヴァスティーにブッダを訪ねようとしたが、ジェータ太子の遊園地(祗園)に足を踏み入れたとたんに大地が裂け、生きながら無間地獄に落ちた。しかし、落ちる瞬間にブッダに帰依したため、その功徳によって独覚になるという予言を受けた。
五事について 『チュッラ・ヴァッガ/第七』「サンガ・ベーダ」

  1. 一生涯の間、森林に住み、村邑に入れば罪とする。
  2. 一生涯の間、乞食をして、招待を受けたときは罪とする。
  3. 一生涯の間、襤褸切れを着て、俗人の衣服を着れば罪とする。
  4. 一生涯の間、樹下に坐すべきで、屋内に入れば罪とする。
  5. 一生涯の間、魚肉を食べず、食べれば罪とする。
『破僧事』

  1. 乳酪を食せず。
  2. 魚肉を食せず。
  3. 塩を食せず。
  4. 長布を用いる。
  5. 村舎に住す。

『大唐西域記/巻十』によると、「乳酪を食せず」はデーヴァダッタの遺訓ということである。


これらの他に仏伝としては『過去現在因果経』、『仏本行集経/巻十二』、『衆許摩訶帝王経』、『仏所行讃』 [* 西暦二世紀の仏教詩人アシュヴァ・ゴーシャ(馬鳴)による『ブッダ・チャリタ(ブッダの生涯)』の訳。原典にはデーヴァダッタの叛逆に関する部分が欠落している] などがあり、デーヴァダッタとブッダとの関係やデーヴァダッタの叛逆についてが詳述されている。また、後代に成立したアヴァダーナ文献『バドラカルパ・アヴァダーナ』にはブッダの妻であったヤショーダラーが「夫が出家して六年を経た後に」生んだ醜い男児であるヴィルーパ(『破僧事』では羅怙羅[ラーフラ])の出生譚が語られ、物語のトリックスターとしてデーヴァダッタが登場する。

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経/第十二』「提婆達多品」(サンスクリット語原典では第十一章「塔の出現」に含まれる)では、ブッダが、自分の成道はデーヴァダッタに負うところが大きいとして彼に対して感謝の言葉を述べており、デーヴァダッタが遠い未来においてデーヴァ・ラージャという如来となるべき旨を予言し、その如来が涅槃に入ると遺骨は七宝造りの塔に安置されて世の尊敬を受けると授記している。ブッダがデーヴァダッタに感謝する逸話は『大方広善巧方便経/巻四』にも見られ、上にリストアップしたような古層の記述とはあまりにもかけ離れたものとなっていることが分かる。
岩本裕・京都大学文学部講師(昭和三九年当時)はその著書『仏教説話』(筑摩書房)で、「『法華経』の成立に関してはまだ十分に研究されていない」と断りながらも、上記のようなことから 「おそらく『法華経』の成立がデーヴァダッタの教団となんらかの関係があったのではないか」 と可能性を推測している。
(筑摩書房・岩本裕『仏教説話』参照)
二〇〇四年五月九日入力)

⇒ 五事 酔象

大空三昧 [だいくうざんまい]
正覚三昧、究竟三空三昧ともいい、空にも有にも執着せずに空と不空と畢竟無相にして一切相を具すと観照する三昧であり、如来の無礙智に住すること。

⇒ 不思議空

達磨 [だるま]
?〜530?。ボーディダルマ。
禅宗の初祖で、『岩波仏教辞典』では宋代の禅宗史書によると「南インド香至国の第三王子で、過去七仏より二八代目の祖師」とされているといい、また達磨に関する記述でもっとも古い内容が見られる道宣の『続高僧伝』(六五〇年頃)には、達磨は波斯国(ペルシャ)の人であるとも南天竺の婆羅門種であるとも記されている。
石井修道駒澤大学教授は、五世紀から六世紀に実在したインド僧で「闊達で寛容な大乗仏教者」だったであろう菩提達摩(ボーディダルマ)という人物は、八世紀に南宗禅によって作られた「厳格なる禅者」としての伝説的虚像・達磨と区別されるべきであるとしている。
壁に面して九年間もずっと座り続けたなどという伝説もあるが、これなどは「壁観」という言葉に基く大きな誤解で、その他にも誤謬に満ち満ちた伝説が数多く、近代において科学的で理知的な仏教学が確立されるまで、そしてまた二十世紀初頭に『二入四行論』が敦煌から出土するまで、その本来の姿が公になることはなかった。

⇒ 壁観 二入四行論 不立文字 荷沢神会 拈華微笑 胡適 鈴木大拙