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仏教用語辞典


三句 [さんく]
三句階段、三句の法門、因根究竟の三句、因行果の三句などともいう。
真言宗において修因から仏果に至るまでを三つの要素で示したもので、『大日経/第一』「住心品」と『守護経』「陀羅尼品」に説かれる。
「菩提心為因」 (菩提心を因となし)
「大悲為根」 (大悲を根となし)
「方便為究竟」 (方便を究竟となす)
の三句をいい、『大日経』の教えの真髄。
ここでいう菩提心は「凡聖不二」の信条を基盤としているため、一般にいう「悟りを求める心」に加えて「清らかな信心」「本有本覚の悟りの心」という解釈をも含めて三重の意味を持つ。
大悲とは「抜苦」を意味し、大慈の「与楽」をも包括する語。これは救済的実践すなわち「行」のことである。
そして方便とは「衆生化益」と「行者修行進趣」の二重の意味を持ち、これを究竟とするとは「無上菩提の仏果」を証得することを意味する。
この二つの立場に従って、空海は『秘蔵記』にて「三句義」と題して「方便為究竟」に二通りの読み方があると主張する。それはすなわち次の二種である。

諸仏の利他向下門の立場からは「方便を究竟とす」と読み、
行者の自利向上門の立場からは「方便究竟を為す」と読む。

このように、三句には如来と衆生のそれぞれの立場から観た解釈が成立している。

⇒ 九句、五転、如実知自心

三昧 [さんまい]
サマーディ(samAdhi)の旧訳(くやく)式の音写で、岩波文庫『法華経(下)』によると「ざんまい」とも読むらしく、新訳では「三摩地(さんまじ)」と書く。
意訳して「定(じょう)」「等持(とうじ)」などといい、文脈によって精神集中に至るための修練か、あるいはその境地に至った状態のいずれかを指す。
前者の場合は「禅(禅那、dhyAna、静慮)」、「瑜伽(yOga)」などの同義語として扱われる。
岩波文庫『法華経(下)』には、また次のようにある。

「心をただ一つの対象に集中して、心が散り乱れるのを防ぎ、心が安らかで静かな状態」を意味する。そして、心がこの状態に達したとき、正しい智慧がおこり、真理をさとることができると説かれた。仏典の記述によると、仏は随時に三昧に入り、三昧から立ち上がると、新しい教えを説くとされる。大乗仏教では実に数百にのぼる種々の三昧が説かれており、しかもそのシチュエーションに従って、それぞれの三昧に名称がつけられている。例えば、『法華経』巻一には無量義処三昧の名を挙げ、『華厳経』巻六などには華厳三昧・海印三昧・獅子奮迅三昧などが説かれる。さらに、経典の名に三昧の名をつけたものがあらわれた。『般舟三昧経』や『首領楞厳三昧経』などがそれで、経名に示す三昧について詳しく説いている。(三九四頁、註五三)

ちなみに、上で挙げられる「無量義処三昧」は「Aananta-nirdesha-pratisSThAna-samAdhi」の訳であり、「実相三昧」「無相三昧」ともいう。
無量義という語については同『法華経(上)』の註一八ノ一を参照すると、世親の『法華論』によれば「無量義」とは教と理との無量を指し、法華経の諸法実相の一から無量の法を出生する意味であるといい、また無量義処については、同『法華経(上)』の註一八ノ三を参照すると、「無量に分別せらるるものの基礎、即ち三乗差別の教法の源底たる諸法の実相をいい(萩原雲来文集四七〇頁参照)、この実相に心を専念する状態を無量義処三昧と名づける」とある。
また、同訳著のサンスクリット語訳を参照すると、十九頁や四五頁などには「無量義処」に対応する言葉として「無限の説法の基礎」とあるのに対し、五五頁には『無量義経(勝れた無限の説法という経典)』に照らした形で「勝れた無限の説法」と書かれている。
このように、仏典において説かれる三昧は、特定の経典の教理的側面を簡易化し象徴する機能を持っている。
(二〇〇四年九月二十六日入力)