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仏教用語辞典


愛 [あい]
サンスクリット語「trshnA(貪欲・渇愛)」の訳として用いる場合、十二因縁の中の愛、すなわち対象を貪り執着することを示す。仏教の最重要テーゼである「慈(=与楽)悲(=抜苦)」の精神とは根本的に異なり、あくまでも個人的で自己中心的な心の働きであって、憎しみを生ずる原因として否定される。
これに対して、サンスクリット語「Prema(愛楽・敬・憐)」の訳語である場合は、浄と不浄の二種の愛が数えられ、それらは法愛と欲愛、善愛と不善愛などを含む。

阿字本不生 [あじほんぷしょう]
阿字不生(あじふしょう)、阿字本不生不可得などともいい、サンスクリット語では「akAra-AdyanutpAdah」という。阿字に本不生の義があるとする主張で、密教の修道によく用いられる解釈だが、『大品般若経/五』「廣乗品」や不空訳『華厳経四十二字観門』といった経論に確認されているように、これは密教の専売特許ではない。
⇒ 不思議空

阿修羅 [あしゅら]
梵名アスラ。
インド神話について書いてる本ならどれも大体似たようなことを書いてると思うが、岩波文庫『リグ・ヴェーダ讃歌』三〇四〜三〇六頁、柏書房『世界神話辞典』のアフラ・マズダーとアスラの項、東京美術『天部の仏像事典』の阿修羅(asura)、岩波『仏教辞典』の阿修羅の項、法蔵館『仏教学辞典』の阿修羅、東京堂出版『インド神話伝説辞典』のアスラの項、NHK出版『インド哲学へのいざない』六五〜六八頁、ちくま学芸文庫『世界宗教史』三四〜三六頁の記述などが特に参考になるだろう。
ただし、ちくま学芸文庫『世界宗教史』を読むと分かるのだが、上記の邦訳『リグ・ヴェーダ讃歌』にはアスラがどのような理由・経緯で神々(デーヴァたち)に敗北したかなどについて記している讃歌(つまり「X・一二四」「V・五」「VII・九九・四」等)がことごとく翻訳されず省かれているので要注意である。
X・一二四 ⇒ 神々の勝利はアグニがインドラの招きに応じて、供犠をもっていなかったアスラたちを見捨てたときに決定した。
V・五 ⇒ その後ほどなく、神々は供犠の言葉(ヴァーチュ)をアスラたちから奪い、インドラはヴァルナに、彼の王国の方に移るようにと招いた。
VII・九九・四等 ⇒ 神々のアスラたちに対する勝利は、インドラのダスユたちに対する勝利と同一視される。
ヴェーダの諸テクストには、神々とアスラたちが対抗し、闘争したことが暗に語られている。この闘争については、ヴェーダ以後の時代になって供犠の奥義について書かれた論である諸ブラーフマナ書のなかで詳述され注解されている。
(二〇〇四年六月二十六日入力)

阿陀那識 [あだなしき]
サンスクリット語「Adana vijnyAna(執持識/執我識)」の音写。
法相宗ではこれを第八識・阿羅耶識の別名であるとし、天台宗では第七識・末那識の別名であるとする。
⇒ 阿頼耶識

阿摩羅識 [あまらしき]
サンスクリット語「amala-vijnyAna(無垢識)」の音写。自性清浄心。
汚れた認識の根拠となるアーラヤ識の否定によって得られるとされる清浄な識のことで、五四六年に中国に渡った西インド出身の僧、パラマールタ(真諦)の説による。
日本ではこれの捉え方に二種あり、天台・真言はこれを独立の識として解釈して第九識とするが、法相宗系はこれをあくまでも八識であるとする。
また、真言宗では九識を以て五智に配し、この第九識が転じると法界体性智となると説く。

⇒ 阿頼耶識 転識得智

阿頼耶識 [あらやしき]
アーラヤ識[Alaya vijnyAna]。
八識(もしくは九識)における第八識で、肉体(有根身うこんじん)と自然(器世間)を対象とする。
汚れや束縛を生じる根源体であり、ヨーガの実践によるこれの転換、つまり「心の浄化」が仏教の究極的目的である。
この識はまた、第七識である末那識とともに、仏教における「深層心理」として知られている。
ただしこれは、フロイトやユング等、精神分析学で提唱される「深層意識」とは大きく異なっている。

横山紘一(こういつ)立教大学教授も主張しているが、まず、精神分析学の特徴は
  1. 心の働きを力動的(dynamisch)に解釈し、
  2. その心の働きを意識・前意識・無意識にわけ、心理の局所性(Topik)を考慮に入れた

ことにあるとし、これらのうちの無意識は
「本能的衝動とかリビドーとかいった、より根源的な心の要素がプールされた領域」

であり、
「そこに貯蔵された表象が決して意識の上にのぼってこないような心の奥深い領域」

であって、このように局所的な観点からこれを無意識と呼ぶ。
この「意識されない(知られない)心の働き」という無意識の定義が、阿頼耶識の特徴の一つである、
「所縁と行相とが不可知である」

つまり「阿頼耶識の認識対象と認識作用とははっきりと知られない」という点と似ているため、便宜上阿頼耶識を無意識と呼ぶことがある。
しかしこれは誤解を生むので注意するべきであろう。

無意識と阿頼耶識との間には、大まかにいって次の五つの相違点がある。
  1. 阿頼耶識は無意識のようには、はっきりと局所的・場所的に深層にあるものとは考えられてはいない。
  2. 阿頼耶識はあくまで「識」すなわち「識る働き」である以上、かならず識られる対象を持っている。
  3. 阿頼耶識は、「有りて有るもの」である無意識とは違って「対象との相互依存(縁起)」に基いて存在し、「転換の構造」を兼ね備えている。
  4. 無意識や前意識あるいは意識を生み出すような心ではないのに大して、阿頼耶識は一切を生み出す根本の心である。
  5. 精神分析は他者の言動(失錯行為や夢、精神症状や強迫現象など)を観察・分析することによって無意識の存在を仮定するのに対して、阿頼耶識はヨーガ行者が自らヨーガを修することによって自らが自らの中で観察し発見したものである。

(参考文献『インド仏教/3』岩波書店、二二六〜二二七頁)

⇒ 転識得智 阿陀那識 阿摩羅識