第一章 真言の教えに入り、心の特徴を理解する章

(一) 序
次のように、私は聞いた。
あるとき、世尊(1)毘廬遮那(大日)如来は、みずからが不思議な力(2)によって作り上げた広大なる金剛(3)のようなさとりの世界の宮殿に住されていた。すべての金剛杵を持つもの(4)は、みなすべて、如来が信心の力で戯れに神通力で作り上げた大きな楼閣に集まっていた。この大きな楼閣は、辺際と中央がなく、頂きは高く、宝玉をもって妙なる大荘厳を施している。
そこにおいて、世尊毘廬遮那如来は、菩薩の姿をとりながら、しかも獅子座(5)に坐しておられた。つき従っている金剛杵を持つもののグループは、大空のように汚れなきもの[虚空無垢執金剛]・大空を歩むもの[虚空遊歩執金剛]・大空から生じたもの[虚空生執金剛]・種々の色をした衣をきたもの[被雑色衣執金剛]・よく歩むもの[善行歩執金剛]・すべての平等なる法に安住するもの[住一切法平等執金剛]・量ることのできない無数の人々を哀れむもの[哀愍無量衆生界執金剛]・大きな力を持つもの[那羅延力執金剛]・非常に大きな力を持つもの[大那羅延力執金剛]・妙なるもの[妙執金剛]・すぐれて速いもの[勝迅執金剛]・汚れなきもの[無垢執金剛]・刃のように煩悩を断ち切るもの[刃迅執金剛]・如来の甲冑をきるもの[如来甲執金剛]・如来の言葉から生じるもの[如来句生執金剛]・言葉の虚構にまどわされないもの[住無戯論執金剛]・如来の十の不思議を手に持つものである秘密のほとけの主[金剛手秘密主]という名前である(6)。
(世尊は)以上のものたちをはじめとして、十方の仏国土にいます無数の金剛杵を持つもののグループと、普賢菩薩・慈氏(弥勒)菩薩・妙吉祥(文殊)菩薩・除一切蓋障菩薩などのもろもろの偉大な菩薩たちによって前後を取り囲まれて、法をお説きになっておられた。その教えは、過去・現在・未来の三時を超越した太陽のごとき毘廬遮那如来の不思議な加護によって、身体と言葉と心が平等になった状態という教えである。
そのとき、普賢菩薩をはじめとする菩薩たちと、秘密主である金剛手をはじめとする金剛を持つ者たちは、毘廬遮那如来の不思議な力に加護されて、みずからの身体が如来のそれと異ならないことを勇ましく示そうとする境地に入り、続いてみずからの言葉と心も如来と異ならないことを勇ましく示そうとする境地に入った。(もっとも)かれらが、如来の身体・言葉・心に入ったのか、あるいは出てくるのかということは、他の誰にも分からなかった。
しかしながら、世尊毘廬遮那如来が、身体と言葉と心のあらゆる行為によって、すべての生けるものに対して、いたるところで秘密の真言の言葉を用いて、教えを説いているのが見られたのである。
すなわち、ある境界において、そこで生涯をすごす業の定めの決定した者は、初めてさとりを求める心を発こして、最高の位である第十番目の修行の位に至るまで、それぞれの修行の段階に安住せしめている。また、ある境界での業の働きが消滅してしまった者は、次の生存へ生まれかわる萌芽を明らかに完成させるために、如来は、金剛を持つ者、あるいは普賢菩薩や蓮華手菩薩と同じ姿を現わして、十方において、秘密の真言の奥深い境地を表わす清浄な言葉を用いて、教えを説いておられるのが見られた。

(二) 最高の真実
そのとき、金剛杵を持った秘密主は、その集まりの中で、坐ったままで、仏に次のように申し上げた。
「世尊よ。供養を受けるに値する賢者である如来は、どのようにして、すべてを知る者の智である最高の真実[一切智智]を得られたのでしょうか。
そのような最高の真実を体得して、数限りない生けるもののために、広く説いて弘め、さまざまの領域やさまざまの性向に応じ、さまざまの方法・手だてを用いて、世尊は最高の真実をお説きになられるのでしょうか。
あるいは、ある者には声聞の教えの道を、ある者には独覚の教えの道を、ある者には大乗の教えの道を、ある者には五神通の教えの道を、ある者には天国に生まれる教えを、あるいは人間は竜や夜叉(薬叉)や乾闥婆から摩ゴウ(目+侯)羅伽、人、非人など実にさまざまの姿をとられ、それぞれの言葉で教えを説いておられます。そして、そのすべてが如来の現われにほかならないのであります。
ところで、この最高の真実の教えの道は、実にあらゆるものに遍満する同一の味であり、すなわち如来の解脱を表わす最高の味であります。
世尊よ。たとえば、虚空は、あらゆる構想作用[分別]を離れて、それを概念化することも、また概念化しないこともないように、ちょうどそのように、最高の真理も、あらゆる構想作用を超越しています。
世尊よ。たとえば、大地は、すべての衆生を支える拠り所であるように、ちょうどそのように、最高の真実も、天や人や阿修羅の拠り所であります。
世尊よ。たとえば、火は、あらゆる薪を焼きつくして余すところがないように、ちょうどそのように、最高の真実も、すべての無知の薪を焼きつくして余すところがありません。
世尊よ。たとえば、風は、すべての塵を吹き払ってしまうように、ちょうどそのように、最高の真実も、すべての煩悩の塵を吹き払ってしまいます。
世尊よ。たとえば、水は、すべての衆生がこれによって喜び元気づくように、ちょうどそのように、最高の真実も、あらゆる世間の人々に利益と楽しみを与えるのであります。

(三) 三つの教えの門
「世尊よ。このような智慧は、何をその出発点とし、何をその基本とし、何をその究極目的とするのでしょうか。」
以上のように、秘密主金剛手が質問すると、世尊毘廬遮那如来は、次のように答えられた。
「よろしい。よろしい。金剛を持てる者よ。あなたが私にこのような意味を尋ねたのは、誠によいことである。あなたは、よく聴いて、そして十分に心にとどめるがよい。私は今からそれを説こう。」
金剛手がいう。
「まさにお言葉のとおりです。世尊よ。私は喜んで拝聴したいと思います。」
如来が説かれた。
「最高の真実は、さとりを求める心を出発点とし、大きな慈悲を基本とし、それらを応用する手だてを究極の目的とする。
秘密主よ。さとりとは何かというと、それは、自己の心をありのままに知ることである。
秘密主よ。この最高の完全に正しいさとりは、それ自体の固有の存在としては、得られるものではない。
それはなぜかといえば、さとりは、実に空間領域[虚空]のようなものであって、そこに至らしめる主体もなければ、至られるべき対象(客体)もないからである。
それはなぜかといえば、さとりには、特徴というべき本性がないからである。秘密主よ。この世に存在するあらゆるものに特徴となる本性がないことは、あたかもこの空間領域に固有の本性がないのと同じである。」
そのとき、金剛手が、世尊にこのように尋ねた。
「世尊よ。最高の真実は、いずれから求められるべきでしょうか。また、何によって、完全に正しいさとりをさとるべきでしょうか。」
世尊は、以下のようにお説きになられた。
「秘密主よ。さとりと最高の真実は、実にみずからの心から求めるべきである。
それはなぜかというと、その心は、本質的に清らかであるから、それは内にあるのでもなければ、外にあるのでもない。また、両者の中間において得られるものでもない。
秘密主よ。そのような心は、完全にさとりに至った聖者である如来さえも、かつて見たこともなく、見ることもなく、こののち見ることもないだろう。
それは、青色でもなく、黄色でもなく、赤色でもなく、白色でもなく、紅紫色でおなく、水精色でもない。長くもなく、短くもなく、丸くもなく、四角でもなく、明るくもなく、暗くもなく、男でもなく、女でもなく、半陰陽でもない。
秘密主よ。実に、心は、欲望に満ちた世界と同じ性格ではなく、純粋な物質からのみなる世界と同じ性格ではなく、純粋な精神のみからなる世界と同じ性格でもない。天や竜や夜叉や乾闥婆や阿修羅や迦楼羅や緊那羅や摩ゴウ(目+侯)羅伽や人や人でないもの[非人]の生存と同じ性格ではない。
秘密主よ。この心は、眼の領域にあることもなく、耳の領域にあることもなく、耳・鼻・舌・身・意のそれぞれの領域にあることもない。
それはなぜかといえば、この心は、虚空と同じ本質であるからである。心と虚空が同じであれば、さとりとも異ならないのである。なぜならば、この心と虚空とさとりの三つはそれぞれ異なるところがないからである。これら(の三つ)は、人々に対する慈しみの心を基本とし、手だての完成をそなえたものである。
したがって、秘密主よ。私は、そのようなもろもろの菩薩たちに対して、さとりを求める心を発こし、清らかにし、そのッ頃を知るためにさまざまの教えを以下のように説くのである。
秘密主よ。もし仏の教えに属する息子か、あるいは女子で、さとりを完全に知ることを望むものは、実にみずからの心そのmのを完全に知るべきである。
秘密主よ。それでは、どうしてみずからの心を知るのかといえば、このように、種類の区別であれ、色であれ、形であれ、対象であれ、物質・感覚・表象・意志・認識であれ、自我であれ、自我の所有物であれ、主観であれ、客観であれ、清浄さであれ、不浄さであれ、十八の構成要素[十八界]、十二の心作用が生じる場[十二処]であれ、あらゆる分類のすべてに至るまでを、その拠り所として追及してみても、それを得ることができないのである。
秘密主よ。このような菩薩の清らかなさとりの心への入口を、初めて智慧の光が照らし出す道[初法明道]と呼ぶのである。菩薩がこの道に住して修行し、勉学に励んだならば、長い間苦労しないでも、すみやかに、あらゆる障りや妨げを取り除く境地[除一切蓋障三昧]を獲得することができるのである。
そして、それを得たことによって、諸仏と同じ境地に立ち、五種の不思議な力を得るであろう。また、計り知れない数多くの言葉と音とを保つこと[陀羅尼]を得て、人々の心の意向を知り、諸仏に守られ、生々流転の世間にありながら、しかも執着することはなく、この世界の人々のために、飽くことなく努力し、生滅や変化を離れた戒[住無為戒]を守りとげて、悪しき見解を離れ、正しい見解に精通するであろう。
また次に、秘密主よ。このようなあらゆる障りや妨げを取り除く境地にある菩薩は、深い信仰の力によって、苦労することが少なくして、すべての仏の教えを完全に満たすこととなろう。
秘密主よ。簡単に要約すれば、以上のような仏教を信じる子女はだれでも、計り知れない功徳をすべて成就することになろう。」

(四) 九つの問い
そのとき、また執金剛秘密主が、詩文によって世尊に質問した。
「世尊よ。どのようにすれば、さとりを求める心を発こしたことになるのでしょうか。
また、どのような特徴によって、さとりを求める心を発こしたことが知られるのでしょうか。
心を知れるものの最勝者よ。自然の智が生じたるものよ。説かれたまえ。
大いなる勇者よ。どのような順序があって、心の段階相が生じるのでしょうか。心のもろもろの特徴やその作用する時を、どうか仏よ、説き示したまえ。
同様に、それらの(結果としての)功徳、またそのような修行を行なうと、どうして心に、『さとりを求める心』という特殊な様相が現れてくるのか、どうか偉大な聖者がお説きになって下さい。」
このように、秘密主が世尊に申し上げた。
そのとき、世尊である摩訶毘廬遮那(大日)如来は、金剛手(秘密主)に次のようにお説きになった。
「よくぞ質問した、真実の仏の子よ。広大なる心をもって、人々を利益するのである。心とは、すぐれた大乗の言葉である。心の段階的展開の姿は、もろもろの仏たちの最高の秘密であり、異宗教を信奉するものは到底しることはできない。私は、今からそれを説き示そう。どうか心して聞きなさい。
百六十を超える世俗的な心を超越すれば、数限りない福徳を生み出すさとりを求める心が生じる。その心の性格は、常に堅固であり、その数量は虚空のごとく無限である。(諸悪や煩悩に)染まっておらず、永遠に不変である。いかなるものにも動揺されず、本質的に寂静であり、特徴を持たない。限りない智慧によって完成されており、完全なる正しいさとりを現わすものである。(そのようなさとりの心に到着した師に)供養する修行を行ないながら、(さとりに向かって)まず第一にその心を発こそうとしなさい。
秘密主よ。もし彼らが自己の真実の心の本質を観察していなければ、次に述べるようなさまざまなものを、誤って自我および自我の所有物と考えるのである。
それらは、たとえば、時間、大地などの構成要素の転変、ヨーガ思想の我、大自在天(シヴァ神)、流出せしめるもの、尊貴なるもの、自然、内部にある主体存在[内我]、神である存在が人間の大きさに等しいと説く教え、神たる存在が万物に遍在していると説く教え、寿命あるもの、プドガラという主体存在、認識、根本識、知るもの、見るもの、主観、客観、内の知、外の知、知るもの、すべて人から生じるという教え[意生]、ヴィシュヌ神の教え、我の常住を説く教え、声(言語表現)を絶対視する教え声がないことを絶対視する教えなどである
秘密主よ。このような種々の考えは、はるか昔から、常に不毛な構想分別によってさとりを求めようとしたものであり、誤った考えである。
秘密主よ。以上のような愚かで、煩悩に悩まされている普通の人間たちの類は、あたかも食欲と性欲とのみにあくせくしている雄羊[羝羊]のようなものである。
ところが、あるとき、ふとある教えが心に浮かぶことがあろう。すなわち、節食し、戒を保つことがその代表的な考えである。彼は、わずかながらでもこのことを思いめぐらし、心に喜びを生じて、くり返しくり返し行うようになる。
秘密主よ。先に述べたような、世間に行なわれているさまざまの教えは、たとえば、種子が成長して実を結ぶ第一段階である。
次に、これを原因として、毎月六回ある精進潔斎日には、父母や一般の男女や親戚に布施を与えるのである。
これは、植物の成長にたとえれば、第二段階にあたる芽がふく状態である。
次に、この施しを、面識のないあらゆる人々にも慈悲の心でもって与える。
これは、第三段階の苞種の状態にあたる。
次に、この施しを、器量があって、徳の高い人に与える。
これは、第四段階の葉の状態にあたる。
次に、この施しを、芸人や音楽家たちに喜んで与え、そして貴い人々に奉献する。
これは、第五段階のつぼみの段階である。
次に、この施しを、喜びの心に満ちあふれた人々に与える。
これは、第六段階の果実の状態である。
次に、また秘密主よ。かれらが戒を守って天国に生まれるのは、第七の段階で、これは(次の)実となる種子の状態である。
また次に、秘密主よ。このような心を持った人が、生死流転の世界を遍歴するとき、ある善き友人から、次のような言葉を聞くであろう。
これらの神々は、実に偉大な神々であり、すべての楽しみを与えるものである。もし、敬虔な気持で供養をささげるならば、あらゆる願いをすべて満たすことができる。
それらの神々とは、すなわち、(大)自在天(シヴァ)・梵天(ブラフマー)・那羅延天(ヴィシュヌ)・商羯羅天(シャンカラ)・黒天(ルドラ)・自在天(イーシュヴァラ)・日天(スーリヤ)・月天(チャンドラ)・竜王(ナーガ)などと、および倶吠濫(クべーラ)・毘沙門(ヴァイシュラヴァナ)・釈迦・毘楼博叉(ヴィルーパークシャ、広目天)・毘首羯摩天(ヴィシュヴァカルマ)・閻魔(ヤマ)・閻魔妃(ヤミー)・梵天妃(ブラフミー)・さらには世間の人々が崇めるところの火天(アグニ)・迦楼羅天(ガルダ)・自在天后(イーシュヴァリー)、および徳叉迦(トクシャカ)・難陀(ナンダ)などの竜王、あるいは仙人やヴェーダの論師たちであり、かれらによく供養するがよかろう。
このような言葉を聞いたものは、非常に嬉しくなり、丁重に帰依して、それらの神々に従って修行する。
秘密主よ。愚か者や普通の人間のように、生死世界に輪廻するものたちにとっては、これらの神々が(心の不安を取り除いて)安らぎを与える拠り所であり、この段階を第八の赤子[嬰童(ようどう)]の心と呼ぶのである。
秘密主よ。また次に、すぐれた修行法がある。その所説の教えに従って、とくに励んだならば、解脱を求める智慧が生じる。すなわち、『変化せずに滅びないこと』[常]、『変化し滅びること』[無常]、『固有の本性を持たないこと』[空]である。このような説に固執する者がある。
しかしながら、秘密主よ。そのようなものは、正しい真理を知らないのである。真実としては、存在するものではなく、存在しないものでもなく、そのいずれでもない。それには、構想作用[分別]もなければ、非構想作用[無分別]もないのである。
それでは、固有の本性を持たないということは、どのようにして知られるのであろうか。この固有の本性を持たないという真理を知らない限り、さとりの境地を知ることはできない。それゆえに、『変化せずに滅びない』とか、『変化し滅びる』というとらわれた考えを捨てて、すべてのものは、固有の本性を持たないことを知るべきである。」

(五) 心の種々相
そのとき、金剛手が、再び世尊に申し上げた。
「世尊よ、どうか心のそれらの差別(多様性)をお説き下さい。」
このように金剛手が語る言葉を聞いて、世尊は次のようにお説きになった。
「秘密主よ。心して聴きなさい。それらの心の種々相とは、(1)むさぼりの心、(2)むさぼりを離れた心、(3)憎しみの心、(4)慈しみの心、(5)愚かさの心、(6)智慧の心、(7)決断の心、(8)疑惑の心、(9)暗愚な心、(10)明快な心、(11)凝集した心、(12)闘争の心、(13)争論の心、(14)争論のない心、(15)神の心、(16)阿修羅の心、(17)竜(ナーガ)の心、(18)人の心、(19)女の心、(20)自在天の心、(21)商人の心、(22)農夫の心、(23)河川の心、(24)池沼の心、(25)井戸の心、(26)守護の心、(27)ものおしみの心、(28)犬の心、(29)猫の心、(30)金翅鳥の心、(31)鼠の心、(32)歌の心、(33)踊りの心、(34)楽器の心、(35)家の心、(36)獅子の心、(37)ふくろうの心、(38)烏の心、(39)羅刹の心、(40)刺の心、(41)地下の心、(42)風の心、(43)水の心、(44)火の心、(45)泥土の心、(46)汚濁の心、(47)染料の心、(48)板の心、(49)過失の心、(50)毒薬の心、(51)羂索の心、(52)鎖跏(さか)の心、(53)雲の心、(54)国土の心、(55)塩の心、(56)剃刀の心、(57)須弥山のような心、(58)海のような心、(59)洞窟のような心、(60)生まれようとする心である。
秘密主よ。この場合、
  1. 『むさぼりの心』とは何かといえば、欲の深い人が、あらゆるものに執着する心である。
  2. 『むさぼりを離れた心』とは何かといえば、欲を捨て去った人が、あらゆるものに執着しない心である。
  3. 『憎しみの心』とは何かといえば、憎しみであらゆるものに執着する心である。
  4. 『慈しみの心』とは何かといえば、慈しみの心ある人が、あらゆるものに執着する心である。
  5. 『愚かさの心』とは何かといえば、吟味することなく、ものに執着する心である。
  6. 『智慧の心』とは何かといえば、すぐれた威力ある教えに執着する心である。
  7. 『決断の心』とは何かといえば、師の教えをそのとおりに守り随う心である。
  8. 『疑惑の心』とは何かといえば、常に不確かなことを考え持つ心である。
  9. 『暗愚な心』とは何かといえば、疑いのない明瞭なことにおいても疑いを起こす心である。
  10. 『明快な心』とは何かといえば、疑う必要のない明瞭なこkとにおいて、疑いを起こさず修行する心である。
  11. 『凝集した心』とは何かといえば、無数にあるものを一つに要約する性格を持つ心である。
  12. 『闘争の心』とは何かといえば、たがいに黒白を決することを好む性質を持つ心である。
  13. 『争論の心』とは何かといえば、おたがいに自分が正しいと主張する心である。
  14. 『争論のない心』とは何かといえば、黒白に執着しない心である。
  15. 『神の心』とは何かといえば、意識して自負する心である。
  16. 『阿修羅の心』とは何かといえば、輪廻をのろい嫌う心である。
  17. 『竜(ナーガ)の心』とは何かといえば、莫大な財産を得るために思念する心である。
  18. 『人の心』とは何かといえば、それ自身の利益のみを思念する心である。
  19. 『女の心』とは何かといえば、欲望だけのために、物事にかかわる心である。
  20. 『自在天の心』とは何かといえば、自分が何でも思っているとおりという傲慢な考えを起こす心である。
  21. 『商人の心』とは何かといえば、初めに安く買い集めて、後に高く売ろうとする心である。
  22. 『農夫の心』とは何かといえば、多くのことを聞き集めて、後に(それに)依存する心である。
  23. 『河川の心』とは何かといえば、両端を見て、(いずれにも)執着する心である。
  24. 『池沼の心』とは何かといえば、(喉の)渇いた者が水を求めるように、欲望を求める心である。
  25. 『井戸の心』とは何かといえば、深くないものを深いと思う心である。
  26. 『守護の心』とは何かといえば、これこそは真実であるが、他は愚かであると思う心である。
  27. 『ものおしみの心』とは何かといえば、自分のためだけにして、他の者には与えない心である。
  28. 『犬の心』とは何かといえば、少しだけを得ても喜ぶような心である。
  29. 『猫の心』とは何かといえば、供養物を見て、それに執着す心である。
  30. 『金翅鳥の心』とは何かといえば、仲間だけに見方して、物事にかかわる心である。
  31. 『鼠の心』とは何かといえば、もろもろの束縛を断ち切ろうと思う心である。
  32. 『歌の心』とは何かといえば、自分のいろいろな音声の歌によって、多くの人々を魅惑しようと思う心である。
  33. 『踊りの心』とは何かといえば、自分自身が、いろいろの妙技によって、他の人々を完全にうっとりさせようと思う心である。
  34. 『楽器の心』とは何かといえば、自分自身が、教えの太鼓を打ち鳴らすのだと思う心である。
  35. 『家の心』とは何かといえば、みずからの身を十分に守るために執着する心である。
  36. 『獅子の心』とは何かといえば、すべてのものを威圧しようと執着する心である。
  37. 『ふくろうの心』とは何かといえば、夜に考える心である。
  38. 『烏の心』とは何かといえば、すべてのものを恐ろしいと考える心である。
  39. 『羅刹の心』とは何かといえば、善人が多くの不善をなす心である。
  40. 『刺の心』とは何かといえば、あらゆることに後悔する心である。
  41. 『地下の心』とは何かといえば、地下(に入ることを思う)心である。
  42. 『風の心』とは何かといえば、あらゆるところで、あらゆることを成しとげる心である。
  43. 『水の心』とは何かといえば、すべての不善を洗い流すために執着する心である。
  44. 『火の心』とは何かといえば、苦行によって願望をかなえようとする心である。
  45. 『泥土の心』とは何かといえば、自分自身の罪でもって他人を汚そうとする心である。
  46. 『汚濁の心』とは何かといえば、他人の罪を得て、(みずからの)心に汚れが生じる心である。
  47. 『染料の心』とは何かといえば、何物かに執着したとき、そのものに対する執着の心である。
  48. 『板の心』とは何かといえば、他の(ものの)善事を捨てることによる執着の心である。
  49. 『過失の心』とは何かといえば、他人にとらわれて他人のことのみを考える心である。
  50. 『毒薬の心』とは何かといえば、財産のないことのみを考える心である。
  51. 『羂索の心』とは何かといえば、すべてのものに自分自身をつなぎとめていようとする心である。
  52. 『鎖跏の心』とは何かといえば、二本の足でとどまって考える心である。
  53. 『雲の心』とは何かといえば、水などを考える心である。
  54. 『国土の心』とは何かといえば、常に自分自身に奉仕する心である。
  55. 『塩の心』とは何かといえば、だれかが何かを考えるとき、それにまたつけ加えて考える心である。
  56. 『剃刀の心』とは何かといえば、出家のことのみに執着する心である。
  57. 『須弥山のような心』とは何かといえば、(心が)高揚していると考える心である。
  58. 『海のような心』とは何かといえば、みずからの身体のみを最高であると理解したままでいる心である。
  59. 『洞窟のような心』とは何かといえば、先に決定してから後にそれを変えることに執着する心である。
  60. 『生まれようとする心』とは何かといえば、ある人の心が、行為を生起することに執着する心である。」
(六) 煩悩をしずめる三つの段階
「秘密主よ。そのような次第であるから、一・二・三・四・五を再数すれば、すなわち、五に二の五乗をかけ合わせると、世間の人々の心は百六十になるのであって、世間の三種の煩悩を超越して出世間の心が生じるであろう。
すなわち、このように、存在するものは、五つの存在要素[五蘊]のみから成るのであって、それらに固有の本性があるのではない。
六種の感覚器官と六種の認識対象によっては、世間の意味は(説明され)ない。
この迷いの生存を生み出す十二の連環[十二因縁]は、すべて煩悩の行為により起こり、(それは)無知の種子から生じるものである。行為者などとは、かけ離れている。
そのように、寂静で、かつ非常に深い意味であり、世の論理学者によっては知りがたく、あらゆる欠点を離れたものであると、諸仏が明らかにお説きになった。
秘密主よ。先の詩文についていえば、かの世俗を超越した心を持つ者には、(自分たちをはじめ世界のすべては)五つの存在要素の中にあると考える認識が生じるであろう。かれらは、そのような存在要素につつまれていながら、(いつか)貪欲や愛着から離れる(心が生じた)ときには、先の考えは、泡とか、水沫とか、幻とか、陽炎と同じように消え失せてしまって、よく解脱することになろう。
このようにして、(五つの)存在要素と、(十二の)認識の場と、(十八の)構成要素と、主観と客観とは、固定的な存在観念を離れて、寂静の境地[空]であると理解するようになるであろう。これを、世間を超越した心と呼ぶのである。
秘密主よ。このような世間を超越した心とは、誤った心と正しい心の八つの区別と結びついたところの業と煩悩の網から離れることであり、修行者たちは、(この心を得るために)一劫のあいだ努力すべきである。
秘密主よ。さらにまた、大乗によって他に依存しない者たちにおいては、存在するものには、(それ固有の)本性がないという理解が生じる。
それはなぜかといえば、このように、かれらは前世に修行をして、(この世における)存在要素の拠り所が完全になくなっていることによって、この真実を十分に知っているので、それは、幻とか、陽炎とか、影とか、反響とか、火を回してできる火輪[旋火輪]とか、蜃気楼のようであるという考えが生じるであろう。
秘密主よ。そのようなわけで、(かれらは)その心に関して、存在するものには、それ固有の本性がないということさえ捨てるのであって、みずからの心は、本来より不生である(と知るだろう)。
秘密主よ。それはなぜかといえば、(かれらは、真実を完全に知っているために)心においては最初の段階も、最後の段階も認識されないのであって、修行者たちは、この段階を二劫をかけて乗りこえるべきである。
秘密主よ。さらにまた、真言の教えに基づいて菩薩の行を実践しようとして、無限の時間のあいだに、福徳と智慧によって計り知れない功徳を積む者がいよう。かれらは、計り知れない智慧と手だて[方便]とを得ており、神や阿修羅などによって礼拝され、声聞や独覚の地位を完全に越えており、帝釈天・梵天・那羅延天などに礼拝されるであろう。
要するに、すべてのものには固有の本性がないという空性の実相は、実体がなく、特徴がなく、形もなく、あらゆる言葉の虚構から離れており、虚空のように際限がなく、すべての存在するものの拠り所となっている。(また)作られたもの[有為]と、作られたものではないもの[無為]という範疇を離れており、行為や所作がなく、眼・耳・鼻・舌・身・意を離れ、まったく本性がないという心が生じているのである。
秘密主よ。これが、さとりを求める最初の心であると諸仏によって説かれた。
かれらは、業と煩悩を有していながら、しかも煩悩(によって引きおこされる)業より離れている。
かれらは、世間から供養されるべき者であり、かれらは、いつも供養され、崇められよう。
また次に、秘密主よ。(密教の修行者である金剛薩タ[土+垂]は)菩薩の最初の修行段階において、(先に述べた)原因と基本と究極[因・根・究竟]という三つの心と、計り知れないさとりの智慧の完成と、すべての人々をあまねく救いとる四つの方法[四摂法]を観察する。
この菩薩の最初の修行段階以上の境地は、比較するものがなく、計り知れず、考えることもできない。それは十の心を設定しており、限りない智慧を生じる。私が説くところのすべては、いずれもこの境地において体得することができるのである。
それゆえに、智慧あるものは、まさに最高の真理の真理に到達する最初の修行段階を思いつづけて、さらに一つの段階(すなわち第三段階)を越えて、この最初の修行段階以上の段階を昇って住すべきである。(菩薩の最初の修行段階以上を、先述のの三心にあたる原因[因]・基本[根]・究極[究竟]と、最もすぐれた救いの手だて[上上方便]との四つの心とし)、これの四分の一(にあたる上上方便)において、菩薩の最初の修行段階以上にあたる(十地の)段階を越えて(最高の真実である仏の境地に至るのである)。」

(七) 六種のおそれなき状態
そのとき、金剛杵を持った秘密主が、仏に申し上げた。
「世尊よ。世を救うものよ。どうか心のすがたをお説きください。菩薩が得るところのおそれなき心の状態には、どれだけの種類があるのでしょうか。」
これに対して、世尊である摩訶(大)毘廬遮那如来は、金剛手に次のように申された。
「明らかに聞き、きわめてよく心にとどめて考えなさい。
秘密主よ。かの愚かな世間の人々は、さまざまの善き行ないを修め、悪しき行ないをなさないときには、まさしく善によるおそれなき状態[善無畏]を得るであろう。
もし、真実のとおりに自己を知るときには、まさしく身体についておそれなき状態[身無畏]を得るであろう。
もし、さまざまの存在要素が集まってできているわが身体において、みずからの物質的な身体観を捨て去って考えるときには、固有の実体的自我は存在しないことについておそれなき状態[無我無畏]を得るであろう。
もし、先に触れた存在要素を否定して、存在するものに対して心が働きをおこすときには、まさしく存在するものにおけるおそれなき状態[法無畏]を得るであろう。
もし、存在するものを否定して、その対象がなくなるときには、まさしく存在するものは、固有の本性を持たないことにおけるおそれなき状態[法無我無畏]を得るであろう。
またもし、すべての(五つの)存在要素と、(十八の)構成要素と、(十二の)感覚領域と、主観と客観と、自我と寿命などと、および存在するものと対象があにこととは、空であってそれ自体固有の本性はない。このような空の智慧が生じるときには、まさしくすべての存在するものは、それ自体として平等であることにおけるおそれなき状態[一切法自性平等無畏]を得るであろう。」

(八) 縁によって生起するもの
「秘密主よ。もし真言の教えにしたがって菩薩の修行を行なうもろもろの菩薩たちは、深遠な教理を修得して、種々の条件より生じる十種のもの[十縁生句]を観察し、まさしく真言の実践行において、それを正しく理解し、体得しなさい。
十種のものとは何かというと、幻と、陽炎と、夢と、影と、蜃気楼[乾闥婆城]と、反響と、水に写った月と、水泡と、眼病のひとが空中に見る花[虚空華]と、火を回してできる火輪とのようである。
秘密主よ。真言の教えにしたがって菩薩の修行を行なうもろもろの菩薩たちは、まさしく以下のように観察しなさい。
幻とは、どのようなものかといえば、すなわち世間で行なわれている魔術と、不思議な薬の威力と、作る者と作られるものとの(結合によって生じる)種々の色や形を持つ像などは、みずからの眼の正しい働きをまどわすから、(人は)不思議な、ありえないことを見てしまうのである。
(これらの幻は、さまざまの原因や条件が)作用しあって生じ、あらゆる方角に展開してゆくけれども、それでいて、幻は立ち去ることもなく、立ち去らないこともない
なぜかというと、その本性が清らかであるからである。このように、真言の幻であっても、よく記憶して唱えることを完成すれば、あらゆるものをよく生じることができるのである。
また次に、秘密主よ。陽炎の性質は、固有の実体がない。(それにもかかわらず)世間の人々の妄想に基づいて、(陽炎が)成立し、論じられるのであるが、同様に、真言の特徴も、ただ仮の名称にすぎないものである。
また次に、秘密主よ。夢の中で見る昼の日(の長さ)と、一昼夜の三十分の一(の長さ)[牟呼栗多(むこりた)]と、きわめて短い時間[刹那]と季節の長さ[歳時]など(のさまざまの時間)において、いろいろなものとして存在し、さまざまの苦や楽を受けるのであるが、それらは、目がさめてみれば、すべて見たものは存在しないのである。
そのように、(すべてを)夢と判断する真言の実践修行も、まさしくそのとおりであると知るべきである。
また次に、秘密主よ。影のたとえを用いて、真言の活動において、不思議な効験が現れでることを理解することができる。あたかも鏡の面において、そこに映像が現れるように、かの真言における不思議な効験もまた、まさしくそのとおりであると知りなさい。
また次に、秘密主よ。蜃気楼のたとえをもって、不思議な効験をもたらす(ほとけの)宮殿を完成することを了解するのである。
また次に、秘密主よ。反響のたとえによって、真言と関わる音声(の位置)を了解しなさい。音声に依存して反響があるように、かの真言(の教え)を実践する者も、まさしくそのように理解しなさい。
また次に、秘密主よ。月が出ることによって、(月影が)清らかな水を照らし、月の姿を現し出すように、そのように、水に映る月のたとえでもって、かの真言(の教え)を実践する者も、まさしくそのように説くべきである。
また次に、秘密主よ。天から雨を降らして水泡を生じるように、かの真言の不思議な効験のさまざまな現われ方も、まさにそのとおりであると知りなさい。
また次に、秘密主よ。空中には人々もなく、寿命もなく、(宇宙創造の)作用をなす者も認識することはできない。心が煩悩に迷って惑乱しているから、このように(空中にものが存在するという)さまざまの誤った見解が生じるようなものである。
また次に、秘密主よ。たとえば、もし人が火の燃えさしを手に持って、その手を空中で回すと、(火の)輪のかたちができるようなものである。
秘密主よ。まさしく、このように大乗の言葉、心(について説く)言葉、等しきものなき(最高の)言葉、決定的な言葉、完全なるさとりの言葉、段階的に大乗の(教えを経てゆく)言葉を明らかに知りなさい。
そして、真理の財宝をそなえ、さまざまの技芸に関する大いなる智慧を生み出し、あるがままにすべての心の姿を知ることができるであろう。」




第十三章 秘密のマンダラの位に入る章

(一) マンダラの宮殿
そのときに、世尊大日如来は、精神集中の境地に入って、未来におけるもろもろの生けるものを観察されるために、禅定の中に住せられた。
そうすると、たちまち(十方にいます)もろもろの仏たちの世界は、あたかも手のひらのように、平らかとなった。(大日如来の宮殿は)五種の宝で間断なく飾られ、大きな宝の天蓋を設け、門の部分[門標]を荘厳している。そして、宝のついた鈴と、白い払子と、すばらしい衣と、流し旗[幡フウ(王+風)]で門部(のとくに上部)を見事に飾り立てた。
(正方形の宮殿の)八方の隅には、摩尼宝珠を頂きにいただいた流し旗を立て、(その中には)八種のすぐれた特徴をそなえた水[八功徳水]がこんこんと湧き出て、満ちあふれている。数限りない種々の島と、縁起のよい一対のおしどりと、鵞鳥とこうのとりが、調和した雅やかな音をかなでている。
さまざまの池には、時どきの花々と、多くの種類の木々がさかんに茂り、美しい光景を現出している。八方の隅には、五つの宝からなる玉飾り[瓔珞]が掛けられている。その大地の柔かなことは、あたかも錦を敷きつめたごとくである。これに触れる者は、すべて快楽を感じることができる。数多くの楽器が、自然に韻律にかなった音楽をかなで、その音はすばらしく、人々がまさに聞きたがる性質のものであった。
(そして、楼閣の中には)無数の菩薩の福徳の功徳によって感得された宮殿や台座がある。また、如来の信仰と本願の力によって生じた宇宙世界を象徴する[法界標ジ[巾+票]]巨大な蓮華が出現し、その中にはさとりの姿を象徴する如来が存在して、もろもろの生けるもののさまざまの性格や志向に応じて、それぞれを満足させておられる。
ところで、そのような偉大な如来のあらゆる身体の部分には、妨げられることのない力がそなわっている。これらは、十種類の智慧の力を信じることにより生じたものである。また、計り知れない形や色によって荘厳された姿をとっている。それは、限りのない長い年月において、施しをなし、戒を保ち、耐え忍び、精神集中し、智慧を持つことを(すべて)完成する功徳を増大したものとして現われるのである。
以上のような特質をそなえた如来が出現して、もろもろの世界の集まりの中で、大きな声で次のような詩頌をお説きになられた。
「(さとりの当体である毘廬遮那如来の不思議な力によって生み出された)もろもろの仏たちは、非常に特別な存在であり、その表面的な智慧ですらまことに思慮を超えている。そして、あらゆる存在にはそれ固有の拠り所がないということをさとられた上で、実際に現われてくる現象についてお説きになった。
誰であっても、もしあらゆる存在が、固定的に認識されないということを理解するならば、認識しないということを通してものごとの真理を知り、(その結果、仏たる)導き者となるであろう。」
このように説き終られて、ふたたびさとりの当体である不思議な仏の世界に戻られたのである。

(二) 秘密マンダラの仏たち
そのとき、世尊である毘廬遮那如来は、ふたたび金剛杵を持った秘密主に対して、次のようにお説きになられた。
「仏教を信じるものよ。みずからの心のうちにあるマンダラについて、明瞭に聴きなさい。
秘密主よ。私の精神集中の中で現われた如来は、実にさとりをその本質とするものである。真言と秘密の印相の不思議な力でもって加護されている。なぜならば、その本質が清らかであるからである。金剛のような堅固な行為によって守られているから、我という実体や、人という主体、生ける者、寿命を持つ者、意より生じる者、ある種の我を認めるもの、創造者などの(あたかも)木の切り株のような過ちから離れているのである。
四方形のマンダラには、四つの門があり、西に向かって延びている。その周囲に、途切れなく(五色線で引いた)界道(かいどう)をめぐらしなさい。
その中央に、八葉を持った大蓮華が出生するが、それは幹を持ち、花心は広大で、麗しい。
その花心に、(本尊である毘廬遮那)如来がいますが、それは、すべての世間において最も尊い存在である。また、身体と言葉と心の相対的境地を超越して、最高のさとりの心の境地に至り、ことにすぐれた心楽しむ結果を得ておられるのである。
(その中尊毘廬遮那如来に対して)東方には宝幢(ほうどう)如来、南方には開敷華王如来、北方には鼓音(こいん)如来、西方には無量寿如来がそれぞれ取り囲んでいる。
また、八葉の蓮弁の四隅にあたる東南方には普賢菩薩、東北方には観自在菩薩、西南方には妙吉祥童子(文殊菩薩)、西北方には慈氏(弥勒)菩薩が位置している。
すべての花びらには、仏・菩薩たちの母[仏母(ぶつも)]と、施しなどの六種の完全な行為[六波羅蜜]や禅定の境地[三昧]を表わす尊格たちが集まって、飾りあっている。
下には、真言の威力を象徴する忿怒の明王たちが列をなしている。金剛手菩薩たちは、蓮華の茎となって、あたかも海のごとく集まっている。すべての地居天などの無数の天人たちが集まって、巨大な蓮華世界のほとけたちを取り囲んでいるのである。
密教の修行者は、さとりへの誓いを完成するために、まさに心から生じた香・花・灯明・身体に塗る香などのもろもろの供え物をもって、以上のすべてのほとけたちに捧げるべきである。」
そこで、(世尊毘廬遮那如来が)詩頌をもって、次のように説かれたのである。
「真言(密教)の修行者は、誠を尽くして、マンダラを描きなさい。
みずから自身を、大いなる如来であると考え、火を象徴する種子のラ(口+羅)字をもって、さまざまの汚れを浄めるのである。
瞑想[瑜伽]の場所に身を落ちつけ、もろもろの如来に思いをめぐらし、教えを受ける弟子の頂きに、種子の暗字を置きなさい。
(灌頂の作法を補佐する)助法の阿闍梨は、たえなる花を入壇の弟子に手渡し、自分でマンダラの上に投華させなさい。
そして、有縁の尊格の名前を説き聞かせなさい。
以上のような(秘密の)マンダラは、まさに最高のものであるから、それによって弟子に(密教のさとりの)象徴を与えなさい。」