大日経 心の差別の章 (住心品)

このように、わたしは聴いた。
あるとき、尊きヴァイローチャナ(大日)如来は、すべての如来の呪力によって加護された金剛法界の宮殿に逗留していた。そのとき、すべてのヴァジラ=ダラ(持金剛者)たちが集まっていたが、その宮殿は如来が自身の好みで奇跡を現じて建造したもので、土台の部分も中央の部分もなく、頂だけが高く聳えたち、宝玉の中の勝れた宝玉で美しく飾られていた。この宝玉で飾られた宮殿の中に、如来は菩薩の姿として、獅子座に坐っていた。そのとき、尊きヴァイローチャナ如来は、サマンタ=バドラ(普賢)菩薩・マイトレーヤ(弥勒)菩薩たちをはじめとして、秘密主のヴァジラ=パーニ(金剛手)などのヴァジラ=ダラたちに囲まれ、崇め尊ばれていた。
こうして、あたかも太陽が三界を超越しているように、われわれ衆生の世界を遥かに越えられた如来であるが、不思議な力で加護を垂れたまい、「如来の身体(身)と言葉(口)と心(意)は、われわれ衆生のそれら と本質的には同じであることの基本の教え」という教えを説かれた。
そのとき、サマンタ=バドラ菩薩をはじめ多くの菩薩たちや、秘密主のヴァジラ=パーニをはじめ多くのヴァジラ=ダラたちは、尊きヴァイローチャナ如来の不思議な力に加護され、みずからの肉体が如来のそれと同一であることを獅子奮迅の勢いで顕示しようとする境地に入った。こうして諸菩薩ならびに金剛手たちは如来の身体・言葉・心と一致した境地に入ったのであるが、かれらが如来の身体・言葉・心に入った、そうでなかったのかは、他の者にはまったく分からなかった。しかし、あらゆる点で、尊きヴァイローチャナ如来が、身体と言葉と心のあらゆる行為により、すべての衆生に向かって、いたるところで秘密の真言へ導く語句を用いて、教えを説いているのが見られた。すなわち、ある境界に生まれて、その境界を送る一生のあいだ業を重ねることになった衆生の場合には、その衆生が最初に発心してから十地に至るまで、それぞれの修行の段階に安住させていた。また、ある境界での一生を終えて、その境界での業のなくなった衆生の場合には、その次の生涯へ生まれ変わるための萌芽を明確に成就させるため、如来はヴァジラ=ダラに似た姿をし、あるいはサマンタ=バドラ菩薩とかパドマ=パーニ(蓮華手)に似た姿を現わして、十方において、秘密の真言へ導く清浄な言葉を用いて、教えを説いていられるのが見えた。
そのとき、この集まりの中に坐っていた秘密主ヴァジラ=パーニが、世尊(ヴァイローチャナ如来)に、このように言った。
「世尊、このように、完全に「さとり」に到達された阿羅漢であり如来である諸佛たちは、絶対の真実(一切智智)を得られて、この絶対の真実を多くの衆生たちに分かち与えるために、種々さまざまの手段・方法を用いて、説き示されました。さらに、ある者には神に生まれ変わる業を積ませ、ある者には人間に生まれ変わる業を重ねさせ、そのほかマホーラガ・ナーガ(竜)・ヤクシャ(薬叉)・ガンダルヴァ(乾闥婆)・アスラ(阿修羅)・ガルダ(迦楼羅)・キンナラ(緊那羅)に至るまでの、それぞれに生まれ変わる業を積み重ねさせて、教えを説かれたのであります。それらの衆生の中で、佛に導かれる若干の者には佛の姿が見られ、ある者たちには声聞の姿が、ある者たちには独覚の姿が、ある者たちにはブラフマン(梵天)の姿が、ある者たちにはナーラーヤナ(那羅延天)の姿が、ある者たちにはヴァイシュラマナ(毘沙門天)の姿が、ある者たちにはマホーラガの姿が見られましたし、そのほか人間ならびに鬼霊に至るまでの、ありとあらゆる姿が見られました。そのすべて、如来のお姿の顕現であります。したがって、それぞれの言葉の言い表し方や、それぞれにふさわしい行状も見られました。こうして、絶対の真実は、また実にこのように、如来の解脱の味の中の味(「さとり」の境地そのもの)であります。世尊、例えば空界はあらゆる分別と妄想を離れており、われわれの分別なり妄想なりの遠く及ぶところではありません。世尊、このように、絶対の真実はあらゆる分別と妄想を超越していて、分別も妄想もないものであります。世尊、この大地がすべての衆生をはぐくみ育てましたように、絶対の真実もまた、神と人間とアスラが一緒に住む世間のものたちをはぐくみ育てたのであります。世尊、このように、例えば火はありとあらゆる薪を燃やして決して消えないように、絶対の真実もまた無知の薪をすべて燃やして決して消えないでありましょう。世尊、例えば風はすべての塵すべて吹き飛ばしてしまうでしょう。世尊、例えば水はすべての衆生の身体を元気づけるのでありましょう。そのように、絶対の真実は神ともども世間の人々を完全に元気づけるのであります。世尊、この智慧の出発点は何でありましょうか。その基本は何でありましょうか。その最終の目標は、はたして何でしょうか。と、このように尋ねると、世尊ヴァイローチャナ如来はヴァジラ=パーニに、このように語った。
「ヴァジラ=パーニよ、よろしい、よろしい。汝が余にこの意味を尋ねたのは、誠によろしい。その故に、よく聴いて、そして心にとどめるがよい。余が汝に語ろう。
最高の真実に到達する出発点は「さとり」を求める心(菩提心)である。
その基本は大きな慈しみ(大悲)である。
そして、絶対の真実を得るという最終の目的は手段(方便)である。
秘密主よ、その場合、「さとり」とは何かというと、自己の心を正しく、ありのままに、知りつくすことであって、これがこの上なく完全な「さとり」なのである。秘密主よ、そこには、教えは微塵ほどもなく、それらは得られるものでもない。それは何故かと言えば、「さとり」は実に虚空の本性のように、そこには「さとり」に至らしめるものもなければ、「さとり」に至らされるものもないのである。それは何故かといえば、「さとり」には本性がないからである。秘密主よ、この世に存在するすべてのものが本性のないことは、あたかも虚空の本性がないのと同じである」。
そのとき、世尊にヴァジラパーニがこのように尋ねた。
「世尊、絶対の真実は、いずれから求めるべきでありましょうや。また、何によって「さとり」を完全にさとるべきでしょうか」。
世尊が語った。
「秘密主よ、「さとり」と絶対の真実とは、実に自身の心から求めるべきである。それは何故かと言えば、その心は本質的に完全に清浄であって、それは内にあるのでもなければ、外にあるのでもない。また、両者の中間において、得られるものでもない。秘密主よ、その心は完全に「さとり」に到達した阿羅漢であり如来である諸佛でさえも、見たこともなく、見ることもなく、またこののち見ないであろう。それは、青色でもなく、黄色でもなく、赤くもなければ、白色でもない。それは、罌栗(けし)の意路でもなく、水晶の色でもなく、短くもなければ長くもなく、円くもなければ四角でもなく、光明でもなければ暗黒でもなく、男でもなければ女でもなく、また半陰陽でもないのである。秘密主よ、実に心は欲界の本質ではなく、また色界の本質でもなく、無色界の本質でもない。天・ナーガ・ヤクシャ・ガンダルヴァ・アスラ・ガルダ・キンナラ・マホーラガならびに人間と鬼霊など世間の衆生に似たものの本質でもない。秘密主よ、この心は眼に住することなく、耳に住することなく、鼻にも、舌にも、身体にも、心の中にも住することはない。それは何故かと言うと、この心は虚空の本質と同じであるからである。その故に、分別と妄想のすべてから離れているのである。それは何故かと言うと、虚空の本質であるものは、心の本質であるからであり、心の本質であるものが「さとり」の本質であるからである。秘密主よ、実にこのように、心と虚空界と「さとり」とは不二であり、二つに分別することはできないのである。それは、また、憐みの根を持ち、手段の彼岸に到達した佛だけが所有するものである。秘密主よ、したがって、このように余が菩薩の集まりの中で教えをいろいろと詳しく説くのも、このすべて「さとり」を求める心を完全に清浄にし、その心を完全に知るためであると知るべきである。秘密主よ、その故に、良家の子女で「さとり」を完全に知ることを望む者は、自分の心そのものを完全に知るべきである。秘密主よ、それでは、どうして自身の心を完全に知るべきかと言うと、このように、種類であれ、色であれ、形であれ、姿であれ、感覚・意識・意志・認識・自我であれ、自我の所有物であれ、執着であれ、清浄さであれ、不浄さであれ、十八界であれ、十二処であれ、あらゆる分類のすべての範疇に至るまで、そのいずれを依りどころに探し求めたとしても、それを知るを得ないのである。秘密主よ、これは「菩薩の完全に清浄な心への入り口」と名づけるもので、教えを照らし輝かす入り口であり、教えを照らし輝かす最初の方法である。それに専念し没頭するとき、菩薩らは苦労すること少なくして一切の障害を排除する三昧に入ることができる。そして、それを得たことによって、菩薩らはすべての佛と一緒に会合することができよう。また、五神通も得るであろう。無限の音と声と調子をもつ陀羅尼を得るであろう。また、衆生の意向をそれぞれに知り、すべての如来に加護されて、生死の廻転(輪廻)において絶対に堕ちることのない身の上となり、衆生を利益するために全く倦み疲れることはなくなるであろう。そして生滅・変化を離れた戒律を遵奉して、邪見を棄て去り、正しい見解に精通した者となるであろう。秘密主よ、さらにまた、すべての障碍を排除する三昧に専念する菩薩は、絶対的な帰依の力を生ずることによって、苦労すること少なくして、佛のすべての教えを完全に満たすことになるのだ。秘密主よ、簡単に要約すれば、良家の子女はだれでも、この無量の功徳をすべて成就させることになるであろう」。
そのとき、また、ヴァジラ=パーニが世尊に語った。
「世尊よ、どのようにすれば、「さとり」を求める心を起こしたことになるか、
「さとり」を求める心を起こした特色を、どのように探し求めるべきか、
心を知りたまえる方々(佛)の中で、最も勝れた方よ、
偉大な勇士の智慧から生じられた方よ、どのような心を超越するときに、
「さとり」を求める心が生ずるようになるか、教えられんことを願いたてまつる。
主よ、「さとり」を求める心の特徴とは何か、いつ心が「さとり」を
求めて動くのか、詳細に説きたまえと願いたてまつる。
また、それらの功徳のかずかずが、どのようなものであるか、
その修行がどのようなものになるのか、どうして心に「さとり」を求める心という
差別があるのか、偉大な賢聖が説きたまわんことをお願いたてまつる」。
このようにヴァジラ=パーニが世尊に語った。
そのとき、尊きヴァイローチャナ如来は、
ヴァジラ=パーニに、「よくぞ質問した。佛子よ」。
と、次のように言った。
「心とは大乗の教えで、最高の深い意味を持つ語である。
心の動きの特徴は、完全無欠な佛の秘密の中で最高のものであり、
世俗の思考では、とうてい知りえられない。
そのすべてを、余は汝に語って聴かせよう。
一心不乱に耳を傾けて聴くがよい。
百六十をこえる世俗的な心を超越するとき、求める心が生ずるであろう。
その心は虚空のように無量であり、汚染されず、永遠に不変であり、
いかなるものによっても動かされず、本来煩悩を離れており、なんの限定も受けない。
限りない智慧によって完成され、完全に「さとり」に到達した師(佛)に供養し、
修行によって完成されるのであるから、「さとり」のために、
まず第一に、その心を起こそうとせよ。
秘密主よ、限りなく遠い過去から続いてきた生死の廻転(輪廻)のために、今の世に愚か者として生まれてきた者や煩悩に悩まされている普通の人間たちは、自己と自己の所有物とに執着していて、執着しているがために自己の心に無数の相違があると思いこんでいる。秘密主よ、この場合、かれらは自己の本質を知らないで、自己とはこういうものだという執着の心を、あらゆる面で起こしているのだ。
秘密主よ、ところで、愚か者や普通の人間でも、いな、畜生と同じ者どもでも、時には、わずかばかりでも、教えを意識するようなこともあろう。そして斎戒沐浴して、『このことに専念しなければならない』と、わずかながらでも考えて悦び、のちには繰り返し、それを行なうようになるであろう。秘密主よ、これは善業を生じさせる種子のようなもので、心の最初の段階である。このことが原因となって、かれらは日柄の好い日が来るたびごとに父母や息子や娘や朋友・親族の者たちに贈り物を贈るであろう。これは芽のようなもので、第二の段階である。また、その贈り物を未知の人にも贈るであろう。これは木の幹のようなもので、第三の段階である。また、その贈り物を受けるにふさわしい人をひろく探して、その人に贈るであろう。これは木の葉のようなもので、第四の段階である。また、この贈り物を長上の人か音楽師たちに哀心から喜んで贈るであろう。これは花のようなもので、第五の段階である。また、この贈り物を喜びの心に満ち溢れた人々に贈るであろう。これは果実のようなもので、第六の段階である。秘密主よ、また、かれらは天国に生まれるために、戒律を守るであろう。これは包み紙になったようなもので、第七の段階である。秘密主よ、また、このような心を持った人が、生死の廻転を遍歴するとき、ある善き友人(善知識)から、このような言葉を聞くであろう。
『これらの神々は、いずれも偉大な神であり、すべての者に幸福を授けられる。汝はこれらの神を礼拝し供養せよ。その神々とは、すなわち、イーシュヴァラ(自在天)・ブラフマン(梵天)・クリシュナ・ルドラ・スカンダなど、さらに日・月・ヴァルナ(水天)・クべーラ・シャクラ(帝釈)・ヴィルーパクシャ(広目天)そのほかで、賢者はこれらの神々に供養するがよかろう』
と、善き友人からこのような言葉を聞き、非常に嬉しくなり、そのとき心から帰依して、これらの神々の礼拝・供養につとめるようになろう。秘密主よ、これが愚か者や普通の人間など生死に流転する人々にとっては最高のなぐさめであり、また力となるのである。これが第八の心であると、諸佛たちは説かれた。
秘密主よ、また、心の差別にとりつかれている者たちは『差別を見た』と言い、かれらの仲間だけに通ずる意味で了解して、『差別はあるのだ』と言って、この世に存在するものは空であるという基本的な原理(空性)でさえも実在すると考えているのだ。秘密主よ、かれらはこの基本的な原理を全く知らないのである。この基本的な原理は実在するものではなく、存在するものでもなく、存在しないものでもなく、そのいずれでもないのである。それには分別も無分別もないのだ。それでは、空とはどのように理解すればよいかというと、この基本的原理を知らないかぎり、「さとり」の境地(涅槃)を知ることができないのであるから、実体があるとか、実体はないとかいう、とらわれた考えを無くしさえすれば、空を知ることができるのだ」。
そのとき、ヴァジラ=パーニが世尊に言った。
「世尊、心のそれらの差別をご教示くださるようお願いします」。
世尊は、このように秘密主ヴァジラ=パーニが語る言葉を聴いて、彼に次のように言った。
「秘密主よ、心の差別の特色を聴け。秘密主よ、その心とは、(1)貪欲の心と、(2)貪欲を離れた心と、(3)憎悪の心と、(4)慈しみの心と、(5)愚かさの心と、(6)理智の心と、(7)示唆の心と、(8)疑惑の心と、(9)暗愚になる心と、(10)明々白々となる心と、(11)凝集の心と、(12)闘争の心と、(13)争論の心と、(14)争論のない心と、(15)神の心と、(16)アスラの心と、(17)ナーガ(竜)の心と、(18)人の心と、(19)女の心と、(20)イーシュヴァラ(自在天)の心と、(21)商人の心と、(22)農夫の心と、(23)河川の心と、(24)池沼の心と、(25)井戸の心と、(26)あまねく見守る心と、(27)物を惜しみむさぼる心と、(28)犬の心と、(29)猫の心と、(30)ガルダ(金翅鳥)の心と、(31)鼠の心と、(32)歌の心と、(33)踊りの心と、(34)音楽の心と、(35)家の心と、(36)獅子の心と、(37)梟の心と、(38)烏の心と、(39)ラークシャサ(羅刹)の心と、(40)荊棘の心と、(41)地下の心と、(42)風の心と、(43)水の心と、(44)火の心と、(45)泥土の心と、(46)汚濁の心と、(47)染料の心と、(48)木板の心と、(49)過失の心と、(50)毒の心と、(51)羂索の心と、(52)鉄枷の心と、(53)雲の心と、(54)国土の心と、(55)塩の心と、(56)剃刀の心と、(57)スメール(須弥山)のような心と、(58)大海のような心と、(59)岩窟のような心と、(60)生まれようとする心である。
秘密主よ、その場合
  1. 「貪欲の心」とは、なにかと言えば、欲の深い人がいつ如何なる時でも物に執着する心である。
  2. 「貪欲を離れた心」とは、なにかと言えば、貪欲を離れた人がいつ如何なる時でも物に執着しない心である。
  3. 「憎悪の心」とは、なにかと言えば、いつでも怒った心で執着する心である。
  4. 「慈しみの心」とは、なにかと言えば、慈しみの心のある人がいつも物を見守る心である。
  5. 「愚かさの心」とは、なにかと言えば、吟味することなく物にいつも執着する心である。
  6. 「理智の心」とは、なにかと言えば、物を相違によって区別して理解し、それぞれに対して関心をもつ心である。
  7. 「示唆の心」とは、なにかといえば、佛のいましめと聖賢の言葉にしたがって行動する心である。
  8. 「疑惑の心」とは、なにかと言えば、一般に承認されている定説に対して疑いを抱く心である。
  9. 「暗愚になる心」とは、なにかと言えば、疑いのないものに疑いを意識する心である。
  10. 「明々白々の心」とは、なにかと言えば、疑いのないものに何の疑いも持たない心である。
  11. 「凝集の心」とは、なにかと言えば、多くのものをひとつにして考える心である。
  12. 「闘争の心」とは、なにかと言えば、互いに口論する心そのものである。
  13. 「争論の心」とは、なにかと言えば、何事においても「おのれが、おのれが」といさかう心である。
  14. 「争論のない心」とは、なにかと言えば、みずから意識して自負する心である。
  15. 「神の心」とは、なにかと言えば、みずから意識して自負する心である。
  16. 「アスラの心」とは、なにかと言えば、生死の廻転を呪う心である。
  17. 「ナーガ(竜)の心」とは、なにかと言えば、大財産を得て、なにかをしようとする心である。
  18. 「人の心」とは、なにかと言えば、自分自身の利益だけを考える心である。
  19. 「女の心」とは、なにかと言えば、愛欲だけのために物事にたずさわる心である。
  20. 「イーシュヴァラ(自在天)の心」とは、なにかと言えば、自分が何でも考えているという傲慢な考えをおこす心である。
  21. 「商人の心」とは、なにかと言えば、底値の際に集めて十分に増加したのちに、高値に売ろうと堅く念じている心である。
  22. 「農夫の心」とは、なにかと言えば、耳にした多くのことを探し求めて、将来のことを慮る心である。
  23. 「河川の心」とは、なにかと言えば、両端を見て、そのいずれにも惹かれる心である。
  24. 「池沼の心」とは、なにかと言えば、喉の渇いた者が水を求めるように、欲望の満足を激しく求めてやまない心である。
  25. 「井戸の心」とは、なにかと言えば、深くないものを深いと思う心である。
  26. 「あまねく見守る心」とは、なにかと言えば、これこそ真実であるが、他は愚かであると思う心である。
  27. 「物を惜しみむさぼる心」とは、なにかと言えば、自分自身にだけ固執して、他を顧みない心である。
  28. 「犬の心」とは、なにかと言えば、小さなものでも喜ぶようになる心をいう。
  29. 「猫の心」とは、なにかと言えば、供物を見て奪われる心である。
  30. 「ガルダ(金翅鳥)の心」とは、なにかと言えば、仲間だけに味方して、物事にたずさわる心である。
  31. 「鼠の心」とは、なにかと言えば、すべての縄索を切ろうと考える心である。
  32. 「歌の心」とは、なにかと言えば、自分のいろいろな音声で歌をうたい、多くの人々の心をとらえようと考える心をいう。
  33. 「踊りの心」とは、なにかと言えば、自分自身がいろいろと妙技を披露して、他の人々をうっとりとさせようと考える心をいう。
  34. 「音楽の心」とは、なにかと言えば、自分自身が教えの太鼓を鳴らすのだと考える心である。
  35. 「家の心」とは、なにかと言えば、わが身をいつどこででも守ろうとする執念である。
  36. 「獅子の心」とは、なにかと言えば、すべてのものを威圧しようとする執念である。
  37. 「梟の心」とは、なにかと言えば、夜を考える心である。
  38. 「烏の心」とは、なにかと言えば、すべての者を怖れる心である。
  39. 「ラークシャサ(羅刹)の心」とは、なにかと言えば、善人がかずかずの不善を行なう心である。
  40. 「荊棘の心」とは、なにかと言えば、あらゆることに後悔する心である。
  41. 「地下の心」とは、なにかと言えば、地下に巣くう鬼霊を思う心である。
  42. 「風の心」とは、なにかと言えば、あらゆることに関して、あらゆることを行なう心である。
  43. 「水の心」とは、なにかと言えば、すべての不善を洗い流そうとする執念である。
  44. 「火の心」とは、なにかと言えば、苦行によって望みを達成しようと欲する心である。
  45. 「泥土の心」とは、なにかと言えば、自分自身の罪悪で他人を汚そうとする心である。
  46. 「汚濁の心」とは、なにかと言えば、他人の罪悪を考えて、自分の心が汚されたときの心である。
  47. 「染料の心」とは、なにかと言えば、何物かに執着した場合、そのものに対する執念をいう。
  48. 「木版の心」とは、なにかと言えば、他人の善事を捨てようとする執念である。
  49. 「過失の心」とは、なにかと言えば、他人にとらわれて他人のことだけを考える心である。
  50. 「毒の心」とは、なにかと言えば、現実に財産のない人だけが考える心である。
  51. 「羂索の心」とは、なんかと言えば、すべてのものに自分自身を縛りつけたままでいようとする心である。
  52. 「鉄枷の心」とは、なにかと言えば、二足でとどまって考える心である。
  53. 「雲の心」とは、なにかと言えば、水などについて考える心である。
  54. 「国土の心」とは、なにかと言えば、自己の肉体そのものを十分に修練させようとする心である。
  55. 「塩の心」とは、なにかと言えば、だれかが何かを考えるとき、それにつけ加えて考える心である。
  56. 「剃刀の心」とは、なにかと言えば、出家のことだけを思う執念である。
  57. 「スメール山のような心」とは、なにかと言えば、だれかがみずからを高いと考える心である。
  58. 「大海のような心」とは、なにかと言えば、自己の身体こそ勝れていると考えたままでいる心である。
  59. 「岩窟のような心」とは、なにかと言えば、既に確定するに至ったのちに、そのものの変化に執着する心である。
  60. その場合、「生まれようとする心」とは、なにかと言えば、人間の生活活動と誕生とだけが共存していると、だれかが考える心である。
秘密主よ、このような次第であるから、別の見方によれば、世間の人々の心は百六十であって、三劫を超越して出世間の心が生ずるであろう。すなわち、
存在するのは五蘊のみであって、それらの本質(我)は決して存在しない。
六根・六教・六界によって、世界の意義は識別されない。
十二縁起のおのおのは、すべて煩悩による行為より起こり、
根本的な無智から生じて、その行為者などは問題でない。
このように寂静であり、真に甚深な教説であり、
世の論理学者のごときが知ることはむつかしく、
あらゆる罪悪を棄てたものと、諸佛が明らかに教え示した。
秘密主よ、その場合、世俗を超越した心を得た者たちにも、自分たちは現象界のありとあらゆる存在(五蘊)の中にいるという認識が、間もなく生ずるであろう。かれらは、このように現象界のありとあらゆる存在につつまれていながらも、いつかは貪欲とか愛欲から離れる心の生じたときに、その認識は泡とか水沫とか、幻とか、陽炎とかなどのように忽ちに消え失せて、完全に解脱することになるであろう。このようにして、かれらは、かれらを含む現象界の存在とか、あるいはそれらを構成する要素(六界)とか、または六種の機能とその対象(十二処)とかを離れて、執着されたり執着したりすることを完全に捨てて、この世の存在そのものの本質が空であることを理解するようになるであろう。秘密主よ、世俗を超越した心とは、衆生がこの迷いの世界の真のすがたをしらないためなどの理由で犯す業と煩悩の網とから離れることであり、したがって修行者たちはこの心を得るために、一劫のあいだ修行すべきである。秘密主よ、このほかに、偉大な乗物に乗って他に依存しない者もあるであろうが、かれらはこの世の存在に本質がない(無我)ことを知るであろう。それは何故かというと、このようにかれらは前世に修行して、この世におけるあらゆる現象なり存在なりの拠りどころが完全に崩壊していることから、この実相を十分に知っているからであって、それは幻とか陽炎とか影とか反響(こだま)とか炬火のまわりに輝く光の輪とか蜃気楼とかのようであるという思いが生じるであろう。
秘密主よ、そういう訳で、かれらは、かれらの心の威力によって、この世に存在するものには永遠に不変な本質そのものもないという観念さえも捨てよう。そして、自身の心は本来不生であると覚るであろう。その訳はといえば、秘密主よ、かれらは実相を完全に知っているので、心の中で過去のはじまりと未来の終わりとを考えないのである。行者たちは、これにも二劫のあいだ過ごすべきである。
秘密主よ、ほかにまた、菩薩が真言秘密の門から入って菩薩の修行をして無量百千千万億劫のあいだに、福徳と智慧とによって無量の功徳を積む者がいよう。かれらは無量の理智と巧妙な手段とを完全に把握しており、神とアスラなどの世界によって礼拝され、すべての声聞および独覚の地位より完全に超越し、またインドラ・ブラフマン、ヴィシュヌをはじめとする諸神によって尊崇されるであろう。このような訳であるから、この世に存在するものは空であるという基本的原理の実相は実物がなく、特色も形もなく、あらゆる無益な言論の対象ともなりえないものであり、虚空のように際限がなく、この世に存在する一切のものの機縁になっていると同時に、因縁によって生じて転変する存在(有為)とか永久不変の絶対的存在(無為)というような範疇を離れており、また造るとか造られるというものでもなく、眼・耳・鼻・舌・身・意(六根)を離れ、完全に基本的な存在性を持たない心が生じるであろう。秘密主よ、『これが「さとり」を求める最初の心である』と、佛たちは説かれたのだ。
かれらは業と煩悩とを有しながらも、煩悩によって惹き起こされる業より離れている。
かれらは世間から供養されるべきもの、かれらは常に供養され、崇め尊ばれよう」。
そのとき、ヴァジラ=パーニは世尊にこのように言った。
「いかなるところにも現れたまう、われらの庇護者よ、あなたが
心の特色を教示されるならば、多くの種類の安堵を得て、
善き生まれの人々は、心安らかに安堵するであろう」。
このように語って、ヴァジラ=パーニが懇願したとき、世尊
マハー=ヴァイローチャナは、そのとき彼に、
「心を集中して、これを聴け」と語った。
「秘密主よ、その場合、いつか愚か者や普通の人間でも善くない行為をやめて、善い行ないをするであろうが、そのときには、かれらは善によって心安らかであろう。だが、いつかは、かれらは自我の本質に関して真実を正しく、しかもあるがままに、十分によく知るであろうが、そのときには、かれらは自我を頼りとして心安らかであろう。しかし、いつかは、かれらはかれらを包む物質的・精神的なあらゆる要素(五蘊)を完全に把握し、自己の本質を完全に検討しつくし、自我に頼ることをやめるであろうが、そのときには、かれらは自分自身に永久不変の本質的な実在はないことを知って、心安らかであろう。さらに、また、いつかは、かれらはかれらを包む現象界のありとあらゆるものを捨てて、永久に不変のもの(法)を意識して、それに固執するであろうが、そのときには、かれらはこの永久に不変のものさえも捨てて不生を信奉するようになるであろうが、そのときには、かれらはこの永久に不変のものさえ永久に不変の本質がないことを覚って心安らかであろう。
いつか、かれらに、かれらをつつむ物質的・精神的なあらゆる要素も、すべての世界も、すべての感覚機能(六根)とその対象(六境)も、執念・執着・自我・生命なども、永久に不変と考えられえるものもあらゆる執着の放棄ということなども、空の本質的な特色により、それ自体の存在性がないという空に関する智慧が生じるであろうが、そのときには、この世に存在するあらゆるものそれ自体の存在性が同じであることを知って、かれらは心安らかであろう。秘密主よ、そのとき、菩薩は真言秘密の門からはいって、菩薩として当然に修めるべき修行(菩薩行)を修行するにあたって、十種の事がらによって、さまざまの縁起のあり方を静思黙想して、真言秘密の道に足を踏みいれるであろう。十種の事がらとは何かというと、すなわち、幻と、陽炎と、夢と、影と、蜃気楼と、反響(こだま)と、水に映る月と、水沫と、炬火の周りの光の環のようなものであると判断されるのである。秘密主よ、その場合、菩薩は真言秘密の門からはいって、菩薩として当然に修めるべき修行を修行するのであるから、このように別々に観察すべきである。その場合、幻とは何かといえば、すなわち、薬剤と呪術とを結合させるなどの方法によって、種々雑多のことで、眼と心とを奪い、以前に見たこともないものなどを示すことである。これらのものは、あちらこちらと、十方に行ったり来たりしない。それは何故かといえば、幻はその本質が存在性のないものであるからである。このように、真言秘密の観行をする人々の心のはたらきから、すべてのものは生ずる。秘密主よ、ほかにもまた、陽炎はその本質が存在性のないものであって、それは意識によって名づけられるものであり、また命名することによって成立するものである。このように、この意識もまた真言秘密と名づけられるもので、命名することによって成立する。秘密主よ、さらにまた、夢の中では、自分自身は一日でも、一時でも、一刹那でも、また暫くの間でも、あるいは一年でも留まっていて、さまざまな幸福と不幸に遭遇するのを見る。しかし、夢から覚めたならば何物も見えないように、この真言秘密への道も夢のようであると見なすべきである。秘密主よ、さらにまた、真言秘密の悉地の生ずるのは、影のようであると理解すべきである。例えば、顔が鏡に映って、顔の影が生ずるように、真言秘密の悉地もまたそれと同じであると理解すべきである。秘密主よ、さらにまた、悉地が成就する場処も、蜃気楼のようであると見るべきである。例えば、声を出したがために反響が生ずるように、真言秘密への道も、それと同じであると理解すべきである。秘密主よ、さらにまた、月が昇るとき水の中に月影が見られることから、水に映る月といわれるように、真言行者そのものは水に映る月のように呪文の奉持者といわれる。秘密主よ、さらにまた、あたかも降雨のときに水しぶきが生じるように、真言秘密の悉地が種々に現れるであろう。
秘密主よ、さらにまた、衆生もなく、生命もなく、
また、創造主もなく、あらゆるものも空であって、
幻だけが現れるのだ。秘密主よ、さらにまた、
もしだれかが、自分自身の手に炬火を持って、
振りまわすとき、車輪のような光の輪が現れるように、
すべてのものは、そのように、空より生ずる。
秘密主よ、これは大乗の根本であり、無比と等しいことの根本である。また、最終的な確信の基礎であり、完全に「さとり」に到達した佛の基礎である。結局、大乗へ入る基礎であって、
さまざまの智慧をさらに生ずる、
この財宝を知るならば、
すべての心の差別もまた、
あるがままに完全によく知られよう。
『大日如来が佛の神通力によりて奇跡を示した加護』を説く経典から「心の差別」を説明した。