掲示板の歴史 その十四
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NO.360  ギリシア正教
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/01/13(Thu) 15:54:20
□IP/ 4.27.3.43


講談社学術文庫、小田垣雅也著『キリスト教の歴史』「第十章 東方教会の事情」によると、西方教会が「聖霊は父と子より発出する」として神と人とを二元論的に捉え込んだのに対し、ギリシア正教は「聖霊が父からのみ発出する」と主張して一元論的なものとして神を理解しているといいます。(二三二〜三)
  • 西方神学が主知主義的、倫理的であるのに対して、東方神学は神秘主義的、形而上学的であると言われる。神が絶対なる者であるということは、相対なる人間は神を知ることはできないということを意味する。西方教会的な、人間が神を知ることができないのは人間が罪によって堕落したからであった。この発想は倫理的、かつ合理的である。それに対して東方教会では、人間が神を知ることができないのは、神が絶対者であって、相対なるこの世のすべてのものを超え、その意味でこの世には属さないからであるとされる。だから東方教会の場合、神は天地の創造主とか全知全能という表現も、それらが人間による表現であり、この世に属するものである以上、神を表現してはいないことになる。つまり神に対するすべての知的定義が否定される。(二三二〜三)
  • 相対的なあり方以外に、神の絶対性は存在しないのである[と東方正教は主張する]。(二三四)
  • 相対を離れて絶対はなく、人間的次元を離れて神はないということである。人間と神とは本来不可分のものである。そして神を一元論的に理解するとはこのような事情である。(二三四)
  • 神は唯一であるからこそ多なのである。これが東方正教的言い方での「一にしてすべて」である。唯一ということが多に対抗したものである場合、その唯一は多に、対抗するという形で依存しているから唯一ではない。東方教会の神理解が神秘主義的であると言われているのも、このような事情を指してのことである。
    このような神理解を表わす東方教会の伝統的な概念が「神人」(theanthropy)である。これは『カラマーゾフの兄弟』の中のアリョーシャのモデルであるとされるソロヴィヨフによって拡められた思想であるが、人類がそれに向って努力べき神人合一のことである。神人合一というような言い方はいかにも神秘主義的だが、いま述べたように神と人間とは本来不可分であるという一元論的背景から、神人論は容易に理解できるだろう。そしてキリストはこの神人の具現として、神の啓示であるばかりでなく、人間の啓示でもある。この場合、神人そのものは、理論上キリストというような特定の人間への具現に限られたことではない。(二三四〜五)
傍線部分は特に大乗仏教掛かった部位、もしくは仏教密教の教理ときわめて類似する部分です。このような教義が発生するためには単なる聖書の解釈の違いということだけではなく、風土的、文化的な影響に加えて、大本のキリスト教にも、それなりの萌芽らしきものがあってよいのではないかと愚推します。気になるので引き続き調べてみたいと思います。



ギリシア正教会の概観
  • 東方教会、またはビザンティン教会ともいう。
  • 四五一年のカルケドン総会議の際にエルサレムを第五総主教区としてローマ、コンスタンティノポリス、アレクサンドリア、アンテオケ、エルサレムの五つの地域が総主教区として定められたが、東方教会はローマを除いた四つの総主教区のことをいう。つまり中近東、北アフリカ、バルカン半島の教会のこと。
  • 地理的、言語的、そして政治的事情が重なって、一〇五四年にローマ・カトリック教会とギリシア正教会が分離。一四五三年のオスマン・トルコの軍隊による東ローマ帝国の滅亡後は勢力の中心はロシア正教に移行した。イヴァン四世(Ivan 一五三〇〜八四、「位」一五三三〜没年)の全ロシア統治以後、一五八九年にはトルコの支配下にあったコンスタンティノポリスの総主教から総主教の称号を与えられ、モスクワは「第三のローマ」となった。一七〇〇年にはピョートル大帝(Pyotr 六七二〜一七二五「位」一六八二〜没年)によって総主教が廃止され、以来同教会はロシア皇帝の政治的道具として存続した。
  • このような教会のあり方に対する矛盾が十九世紀になってドストエフスキー(Fyodor Mihailovich Dostoevskij 一八二一〜一八八一)をはじめとするロシア文学の背景となった。