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NO.314 辞典における定義
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/12/15(Wed) 18:00:18
□IP/ 4.27.3.43
河の陽子さま、初めまして(^_^)
問題提示感謝いたします。
もともと腰が重いので抛っておくと何もやらない上、師走は忙しいため当分本当に何もしないつもりでいたのですが、お蔭様で少し問題意識に火がつきました。
それではまず手始めに、以下に仏教における修行の定義を、いくつかの辞典から引いてみたいと思います。改行、傍線、番号などを施してなるべく分かりやすくなるよう編集しておきます。
岩波書店『岩波仏教辞典』
修行[s: bhAvanA, yoga, anuyoga, pratipatti]
- 仏道修行の語が示すように、仏教における修行とは、真実の自己を実現するために、みずからの行いを正し修めることであるから、サンスクリット原語bhAvanA(みずからを現すことという原意)が「くりかえしして身につけること」を語義とする。
この語を「修行」とか「修習」と漢訳するが、「修」にも「習」にもインド古代語と同じ語義が含まれている。ちなみに中国古典では、「仁義を修行す」(史記・宋微子世家)「先王の道を修行す」(漢書・儒林伝)のように儒教の教えによって身を修めるという意味で用いられていた。
初期仏教以来、修行の目的は苦滅の境地に達することで、そのために戒定慧の三学が順次に修せられてきた。
まず五戒などの誓戒や生活規律を身につけ、それによって禅定・三昧の瞑想を深めながら諸種の真理観を修める。
ついで、真理の観察を通して智慧を体得する者、すなわち初歩のさとりを得る聖者位から進んで阿羅漢の解脱の位に達する者となる。ちなみに、「戒」(SIla)は習慣の意味があり、bhAvanAと同じに、くりかえし身につけるから、自戒の力が体内に蓄積され、戒香薫習(かいこうくんじゅ)の人とたたえられる。
また、「慧」は智慧(prajn~A)のことで、相対分別する知識を超えた無分別智をいい、この智慧は正法(正しい真理の教え)を聞くこと、あるいは思惟(思索)すること、あるいは修習することによって得られるとする(聞思修[もんししゅ]の三慧という)。そこで、智慧の獲得は単なる知識・理論よりも、修行によってなされることがわかる。
ゴータマ・ブッダ(釈尊)の出家目的が聖求(ariyapariyesanA、聖なるものの探求)であり、菩提樹下でさとりを開き覚者となって80歳で入滅するまで、ひたすら聖求の道を歩み続けたと、ブッダみずからが語っている。さとりを求める人を菩薩(求道者)と呼ぶが、ブッダはさとりを開いて覚者となっても、なおさとりを求め続けた。仏も求道者であり、永遠の修行者であるということである。
大乗仏教は、このような釈尊観に立つ。とりわけ、大乗仏教徒は前生の釈尊が菩薩の修行をなしたことに共鳴し、かれらも菩薩と称して空観と慈悲観を修行内容とした。
修行によって仏果のさとりを得るといっても、釈尊滅後、修行道が複雑化し、人びとの能力低下などによって、さとりを現生において得ることが困難であるとされ、三祗百大劫(さんぎひゃくだいこう)という長年月を経なければならぬとさえいわれ出した。一方、道元のいうごとく、修と証は別々のものでなく(修証一等)、修行の一歩一歩が証に現成しており、また仏も求道者であるという把握に基づく本証妙修の考えが強調されたことは、仏道修行の本旨を鮮明にするものである。
なお、「修行」は、日本では転義して、托鉢などをして諸国の霊場寺院を遍歴すること、廻国巡礼の意味となり、さらに広義に諸芸諸道の習得に努力する意ともなった。
法蔵館『仏教学辞典』
修行
- 教えを身にたもって修め習い実践することで、仏教ではさとりを求める心を発(おこ)し(発心)、その願望目的を達成するために修行し、その結果としてさとりを開くとする。日本では修行の語を、特に頭陀(ずだ)苦行、または廻国巡礼の意味に用い、これを行なう者を修行者(しゅぎょうじゃ、ずぎょうさ)ということがある。声聞・縁覚・菩薩がそれぞれの究極の果に至るまでの修行の年月について、声聞は三生六十劫、縁覚は四生百劫、菩薩は三祗(ぎ)百劫を要するとする。
- 三生六十劫とは、声聞が阿羅漢果に至るのに、最も速い者は三度生まれ変わる期間を経、最も遅い者は六〇劫(この劫は刀兵などの一中劫)を経るとし、第一生または初めの二〇劫には順解脱分を起こし(三賢位)、第二生または次の二〇劫には未至定によって順決択分(じゅんけっちゃくぶん)の慧を起こし(四善根位)、第三生または終わりの二〇劫には根本定によって再び順決択分の慧を起こして見道に入り、ついに無学果を証するとする。ただし第三生で初めて順決択分の慧を起こすとする説もある。また、速い者を利根、遅い者を鈍根とするが、逆に遅い者は長い鍛錬に耐え得る練根で利根の者とすることもある。
- 四生百劫とは、縁覚が辟支仏果に至るのに、最も速い者は四生、最も遅い者は百劫を要するのをいう。倶舎論第一二には、麟角喩(りんかくゆ)独覚(縁覚)は必ず百大劫の期間にさとりのものでとなるものを修めると説き、四生の説を説かない。
- 三祗は三阿僧祗(あそうぎ)劫(三僧劫、三祗劫)、百劫は百大劫の略で、三僧劫百大劫ともいい、菩薩は三百大劫ともいい、菩薩は三阿僧祗劫にわたって波羅蜜を修め、その後の百大劫において、仏が具えるすぐれたすがたかたち(三十二相、八十種好)を生ずるたねとなる相好業(そうごうごう)を植えるとし、これらの修行を三祗の修行、この修行を経て成仏するのを三祗成仏という。
⇒ 大毘婆沙論巻一七八には、菩薩が初阿僧祗劫に七万五千仏、第二阿僧祗劫に七万六千仏、第三阿僧祗劫に七万七千仏という数多い仏につかえて、さとりに至るもとでを作り、次いで九一劫に六仏につかえて異熟業を修め、王宮に生まれて後、三四心断結成道することを説き、大智度論巻下では三祗のみを説いて百劫を別に説かない。
⇒ 法相宗では初阿僧祗劫は五位のうちの資糧・加行の二位で、ここでは一行のうちに一行を修め、第二阿僧祗劫は通達位及び修習位の一部、即ち初地から七地までで、ここでは一行中に一切行を修め、第三阿僧祗劫は修習位の残り、即ち八地から十地の満心までで、ここでは一切行中に一切行を修める。そして十地の満心において等覚の位にのぼり、ここで成仏のための方便の行を修めるのが百劫の行にあたる(五位)。また三祗の修行の間において階をとび超えて高い修行階位に至ることができるとし、これを超劫というが、初地以上には超劫がないとする説もある。
⇒ 華厳宗や天台宗では、三祗百劫の説は小乗および下根の者のための方便的な教えについていうのであるとし、両宗がそれぞれに円教とする教えからすると、衆生は本来的に仏であるから三祗という時間の長さは問題ではないとする。
⇒ また真言宗では三劫の妄執(三妄執、さんもうじゅう)を一念に超えることを説き、
⇒ 浄土教では本願の力によって往生し成仏させられるのであるから三祗の修行を説かない。